『マーティ・シュプリーム』の本質は“走り続ける”こと “奔走”として表現された魂の旅路

 アメリカに実在した卓球選手マーティ・リーズマンの自伝をヒントにしたオリジナル作品、『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』。1950年代のニューヨークなどを舞台に、口八丁手八丁で貪欲にステータスを掴もうとする一人の男を、人気絶頂にあるティモシー・シャラメが演じる映画だ。先日の第98回アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞を含む9部門にノミネートされたものの、惜しくも無冠に終わった。

 折しも、ティモシー・シャラメは最近、「オペラやバレエには誰も関心を持っていない」などと放言したことで炎上中。それが受賞結果にどれほど反映したのかは分からないが、司会のコナン・オブライエンには「今夜は、オペラ界とバレエ界の人々から襲撃されるかもしれません」と、しっかりネタにされるなど、散々な扱いを受けてしまった。しかしそんな舌禍事件による影響は、むしろこの映画の雰囲気には相応しかったと言えるのかもしれない。

 モデルとなったマーティ・リーズマンが若かった1940年代、1950年代のアメリカにおいて、卓球という競技は軽視され、ほとんど“遊戯”という枠内に収まっていたという。だから当時、トップ選手に育っていくマーティですら賭けゲームに興じて、あえてヘボだと思わせて最終的に勝つといったような、「ハスラー」としての技術で金を稼いでいたという事実がある。本作が描くのは、そうした「アメリカンヒーロー」とは程遠い人物が、人生のチャンスとピンチというエッヂの上を、猛スピードで駆け抜けていく姿なのだ。

 監督は、『グッド・タイム』(2017年)、『アンカット・ダイヤモンド』(2019年)を、弟のベニー・サフディとともに手がけてきたジョシュ・サフディ。今回は単独での監督作として、これまでの追い詰められた人物が、制限時間のなかで奔走せざるを得なくなるといった作風を、この題材に無理なく落とし込んでいる。

 序盤から中盤にかけて描かれるマーティの振る舞いは、もはや“クズ”と言ってしまっても差し支えないくらいに、めちゃくちゃだ。彼は卓球選手として一部界隈で名を売りながら、生計を立てるために親戚の靴屋で働いていた。そして仕事中に既婚のレイチェル(オデッサ・アザイオン)を連れ込み、バックヤードで不倫を楽しんでいる。その結果、彼女を妊娠させてしまうのだが、アメリカの英雄になるという自らの野心の邪魔になると判断すれば、責任を放り投げて背を向けようとする。

 そんな状況にもかかわらず、彼は反省して足を止めることはしない。責任や危機から逃れるように、次へ次へと加速し続ける。著名な俳優ケイ(グウィネス・パルトロウ)との不倫にも耽り、自らの虚栄心を満足させるだけでなく、彼女の夫である実業家をスポンサーにしようとすらするのである。

 彼の非情さは人間関係にとどまらない。詐欺がバレて逃亡を余儀なくされる局面でマーティは、映画監督のアベル・フェラーラが演じる老男性から金を受け取って託された犬を、道端に捨てていくのである。とくに英米の文化圏では、登場人物に犬をかわいがらせたり救わせたりすることで主人公に感情移入させることが常套手段。おそらくここでサフディは、あえてその真逆を提示して、観客の心理を揺るがせようとしているのだと考えられる。

 嘘を嘘で塗り固めて他人から金を引き出したり、投資家から毟り取ろうとする執念……これらはすべて、マーティ自身が“特別な自分”という虚像を維持するための略奪行為に他ならない。とはいえ、彼がどれほど身勝手な振る舞いを重ねようとも、劇中の登場人物たちがそうであるように、われわれ観客もまた、彼の野放図な冒険に付き合いながら、いつしか彼に肩入れしていることに気づくのではないか。そんなマーティを演じているのが、過去にもコント番組の不謹慎ジョークで問題になりつつも業界から干されることがなかった、“ハリウッドの王子”ティモシー・シャラメであることは効果的だったといえる。

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