『死亡遊戯で飯を食う。』はなぜ考察がはかどる? 美術と記号で“読ませる”アニメ表現

 2026年冬クールにおいて、多くのアニメファンの熱い視線が『死亡遊戯で飯を食う。』に注がれている。キャラクターが次々と命を落とすスリリングな展開は本作の大きな魅力だが、画面の隅々にまで仕込まれた美術的・象徴的なモチーフもまた、考察好きの視聴者を虜にしている。本稿ではこれらの考察がはかどる仕掛けや演出から、作品を読み解いてみたい。

 まず前提として押さえておきたいのが、上野壮大監督が原作を読んだ段階で、フランスの画家エドガー・ドガが描いた「踊り子」の絵のような雰囲気を感じたということだ(※1)。俯瞰的な構図、少し引いた視点で対象を捉える手法は、まさにドガの画風そのものである。ドガの代表作「オペラ座の稽古」や「舞台のバレエ稽古」を見れば、本作の絵作りとの共通点は一目瞭然だろう。

TVアニメ「死亡遊戯で飯を食う。」メインPV|2026年1月7日(水)より好評放送・配信中

 しかし、この引用には単なる絵作り以上の意味があるのではないかと筆者は考えている。ドガの絵画では、華やかなチュチュを纏った少女たちが舞台の光を浴びているが、19世紀パリのバレエ界には、舞台の優雅さとは裏腹に、パトロン制度と結びついた搾取的な構造が存在していたとも指摘されてきた。少女たちは「美」を提供する存在として消費され、その背後にある犠牲は不可視化されていたのである。

 その構図は、本作におけるデスゲームの在り方と重なる。幽鬼のように“望んで”ゲームに参加した一部の変わり者を除き、借金返済や生活のために命を賭ける金子たちの境遇は、選択の余地があるようで実際には構造から逃れられない点で搾取的だ。視聴者は美術館で絵画を鑑賞するかのように、印象派風の映像美を通して惨劇を眺めさせられるが、その視線は、劇中で幽鬼たちを管理・監視する「観客」の存在とも重なっていく。本作が描いているのは、狂気と美の同居だけではなく、それらが無理なく共存してしまう搾取のシステムでもある。

 第1話で目を引いたのは、食堂でのティータイムが惨劇へと反転する瞬間だ。6人の少女たちが穏やかにお茶菓子を口にする中、黒糖が銀盆の下に隠された脱出の鍵を取り出した途端、罠が作動し、彼女の脳幹を貫く針が発射される。くつろぎの時間が一瞬で「生贄」を要求する装置へ変わるこの落差は、供物を捧げる祭壇のメタファーとしても読めるだろう。鍵は「灯台下暗し」と作中でも言われた通り、かなり見つけやすい場所に置かれていた。脱出という希望は、誰かの命と引き換えにしか手に入らない。ゲームの大前提となる交換条件が、最初の食卓で提示されたのだ。

 その後、幽鬼が黒糖の死体をまたぎ、扉へと向かうシーンも印象的だ。金子と青井、そして死体を挟んでそれ以外という人物配置は、この時点でのちの運命を暗示しているとも読める。

 同じく第1話で話題となったのが、螺旋階段の踊り場に置かれた「サモトラケのニケ」像である。紀元前2世紀頃に制作されたこの彫刻は、頭部と両腕を欠いた姿でルーヴル美術館に収蔵されている勝利の女神像だ。少女たちが出口を求めて階段を上る場面でたびたび映り込むこの像は、「なんて悪趣味な」と思わせるほど露骨で、意図的な配置に見える。不完全なニケ像は、勝利の陰には犠牲(欠損)が伴うことを示唆しているようだ。

 そして見逃せないのが、螺旋階段の像と対になるように、館を抜けた先で視界に入ってくる像の存在である。頭部と両腕の揃った像が“欠けのないニケ”を想起させる意匠として置かれているのだとすれば(前進するような身体のひねりや翼からして同一に見える)、勝利を掴んだ暁にのみ欠損が修復される――そんな残酷な希望を、対比として提示しているとも読めるだろう。

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