セックスワークは“若者の新たな選択肢” 『セバスチャン』監督が語る、現代の自己発見の形
2024年のサンダンス映画祭でワールドプレミア上映され話題を呼んだ映画『SEBASTIAN セバスチャン』。ロンドンで作家を目指す青年マックス(ルーアリ・モルカ)が、執筆の糧とするために自らセックスワーカーの道へ足を踏み入れていく姿を描いた一作だ。『IndieWire』で「注目すべきLGBTQ映画作家」の1人として紹介されたフィンランド出身のミッコ・マケラ監督に、現代のセックスワークのあり方、自伝的フィクションという諸刃の剣、そして彼が敬愛する小津安二郎やフランス映画の巨匠たちから受けた影響について語ってもらった。
“自らの選択としてのセックスワーク”への興味から映画に
ーー長編2作目となる本作で、セックスワーカーを題材として描こうと思った背景やインスピレーションについて教えてください。
ミッコ・マケラ(以下、マケラ):1作目はフィンランドの田舎が舞台だったので、次は都会を舞台にしようと考えたのが始まりでした。私が大学卒業後にロンドンへ移住し、そこで目にした光景が大きなヒントになりました。特に驚いたのが、ロンドンのクィアシーンにおいて、自らの意志でセックスワークを選択する若い男性が非常に多いという事実です。かつてのセックスワークといえば、貧困に追い詰められた末の“最終手段”というイメージが強かった。しかし現代では、OnlyFans(オンリーファンズ)などのプラットフォームや出会い系アプリの普及により、学生がアルバイト感覚で始めたり、クリエイティブな世界で頭角を現そうとする若者が資金稼ぎのために行ったりと、“数ある選択肢の一つ”へとセックスワークのあり方が変化しています。この“自らの選択としてのセックスワーク”というあり方に強い興味を抱きました。同時に、ストーリーテリングの本質についても考えました。「生きた実体験でなければ本当に語ることはできないのか」「誰が誰の物語を語る権利があるのか」という問題です。これらは映画でもノンフィクションでも常に付きまとうテーマですから。
ーー主人公のマックスが「セバスチャン」としての体験を本に書くという構造は、フィクションをどう語るかというテーマと重なり、観客に不思議な感覚を与えます。
マケラ:「自伝的フィクション」という諸刃の剣、あるいはその矛盾に惹かれました。マックスは小説の中では非常にパーソナルなことを赤裸々に書けるのに、現実のマックスとして振る舞うときは自己表現が下手で、自分の中に閉じこもっている。自伝的な表現で成功しているアーティストにしばしば見られるアイロニーですよね。この10~15年、文学の世界でも自伝的要素をフィクションに織り交ぜる手法は大きな潮流になっています。映画界でも、私の好きなオリヴィエ・アサイヤスやミア・ハンセン=ラヴのように、自分の人生を部分的に利用しながらフィクションを作り続ける作家たちがいます。そのような構造を自分の映画にも盛り込んでいきたいと考えました。
ーー劇中では作家のブレット・イーストン・エリスが実名で登場しますが、彼もまたその境界線で描く作家ですね。
マケラ:その通りです。彼は自伝的要素を巧みにフィクションへ発展させ、「これは実体験ではないか」と読者の視点と戯れる名手です。さらに彼はセックスワークやクィア文化についての小説も書いており、マックスの試みと非常に高い親和性があります。彼は作家という存在が読者の枠を超えて、社会的な文化的プレゼンス(象徴)になり得た最後の世代ではないかとも思っています。
ーーマックス役のルーアリ・モルカさんの存在感にも目を奪われました。彼とはどのように役を作り上げたのでしょうか。
マケラ:観客には、彼を“知らない俳優”として発見してほしかったんです。過去の役柄の記憶がない新人を探すため、オーディションテープを山ほど見ました。ルーアリのテープを見た瞬間、文字通りノートパソコンから飛び出してくるような強烈なエネルギーを感じ、彼に決めました。撮影前には時間をかけて脚本を緻密に読み合わせ、監督の私と俳優の彼が常に同じ認識でいることを確認しました。
ーー大胆なセクシャルシーンも多いですが、演出面で気をつけたこと、意識したことがあれば教えてください。
マケラ:セクシャルシーンについては、インティマシーコーディネーターに入ってもらいました。そのことはとても大きな助けになりました。ルーアリ・モルカと各シーンの相手役との間に迅速な信頼関係を築いてくれたおかげで、俳優たちは安心して撮影に臨むことができたと思います。また重要だったのは、セクシャルシーンを単なる性描写ではなく、ドラマチックなシーンとして扱うことでした。そのシーンを通じて人物の何が明かされ、どう成長し、変化するのか。演出の意図は、通常の会話シーンと全く変わりませんでした。