押井守が厳選100カット解説 『天使のたまご THE VISUAL COLLECTION』はファン必携の一冊
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)の押井守監督が1985年に手がけたアニメーション作品『天使のたまご』が、40年の時を経て4Kリマスターされ、音声もステレオから5.1chサラウンド及びドルビーアトモス化されて登場。その美麗なビジュアルと深遠な物語が、『天使のたまご THE VISUAL COLLECTION』にまとまって刊行。押井監督によるエピグラフやインタビューへの答えによって、難解と言われがちな作品の世界に迫っていける。
スクリーンに映し出された青白い手のひらが、続くカットで色味を増した上に何かを握ろうとする仕草を見せ、そこにたまごが潰れるようなグシャリという音が重なる。『天使のたまご』を観るとき、観客はこの冒頭のシーンからすでに何を意味しているのかと考えなくてはいけない状態に陥る。
もっとも、映画は続いて樹の上に乗った巨大なたまごの中にひな鳥が眠っている姿が映って、舞台がどこか異様な世界だということを訴えかけてくる。そして、赤い空をバックに立つ少年の姿であり、眼がついた巨大な球体が海のような場所へと降りていく様子が映し出されるめまぐるしい展開に、考えるより身を委ねるしかないと思わされる。
流れる時間の中で綴られていく映像作品という表現の特性から、それも仕方のない話だが、『天使のたまご』は全編を通して観たとしても、異質なビジョンと静けさの中に緊張感をはらんだドラマに心を奪われ、振り返って何が映っていたのだろう、何が描かれていたのだろうと考える心の余裕をうまく取れない。何かすごいものを観た。そんな印象だけが体験として残って語り継がれ、『天使のたまご』の難解だという“伝説”を強固なものにしていく。
『天使のたまご THE VISUAL COLLECTION』はもしかしたら、そんな“伝説”を、公開から40年を経て解体する役割を果たす1冊かもしれない。
押井守によるエピグラフ
映画の場面を切り出し、押井監督によるエピグラフを添えてストーリーを見せていく本書。ファーストカットの青白い手に添えられた「初めて目にするもの……それは自分の掌(てのひら)。そして世界は感触から始まる。」というエピグラフと、押井監督自身による「人が生まれ、目覚めて最初に手を見ることで、アイデンティティーが生まれる」という言葉から、映画の中の誰かであり、また映画そのものが目覚めたのだと感じ取れるようになる。
巨大な球体が海に沈んでいく場面については、「太陽とか神という呼びかたが一番近いかもしれない」と言い、「黄昏の海に沈む黒い太陽。」というエピグラフを添えて、モンスターや妖怪の類ではなく、もっと象徴性を持った超越的な存在だということを示す。そして、映画に登場するたまごを抱えた少女の身に起こる出来事に、「少女は、太陽の中の『上部構造』に昇華した」という言葉と、「その座から、遠ざかる大地と少年を見下ろすのだろう。」というエピグラフを通して、ひとりの少女が目覚め、さまよい、出会ってそして殻を破るというまっすぐな物語だったことを解らせる。
途中に幾つも登場する印象的なディテールについても、一定の解釈を得られる。誰もいない街を歩く少女の横を通り過ぎる何輌もの戦車とともに、少年が現れる場面に添えられた「野党の如き訪れ。少年が運んできたのは戦争の記憶だろうか。」というエピグラフは、少年が少女の日々を変える存在だったことを表す。「少年が戦車に乗って現れるのは、ミリタリズムよりも宗教的な意味合いから」「この少年にはイエス様のようなイメージがあって、だから十字架型のバズーカを背負っている」という言葉も、少年をただの通りすがりではない何者かとして屹立させる。少年の手に巻かれた包帯の下には、磔になった傷跡があるらしい。ということは……。想像がふくらむ。
こうしたエピグラフやインタビューでの言葉から解るのは、印象が先に来るシーンであっても、そこに何かしらの根拠があるということだ。それは時に哲学的であったり、宗教的であったり、神秘的であったりする。『天使のたまご』という作品は、そうした押井監督の中からあふれ出た思弁性に埋め尽くされていて、そこに最初から最後までどっぷりと浸らされる映画なのだ。
場面場面に対する押井監督の言葉は、演出家としてのクリエイティブな考えであり、そこで使われたアニメーションとしての技術といったものについても触れられる。冒頭の手のひらが、アイデンティティーの確立を示唆するものだと話しているのもそのひとつ。少女の髪を白くしたのも、「何千年も生きてきた老婆のように見える瞬間があってほしい」から。その髪が「『ラーメン線』と呼ばれ、縮れて」いるのは、「ストレートな線だと動きの”溜め”が出ず、華奢な線でナイト重みが出てしまう」から。作画監督の名倉靖博やアニメーターの二木真希子の名を上げて、よくやってくれたと感謝の言葉を送っている。
少女のコスチュームがピンクなのは、「色彩設計の保田(道世)さんの提案。『肌も髪も白いんだから、女の子には少し明るいものを着せてあげたい』と」。保田も二木もスタジオジブリで宮﨑駿監督を支えたクリエイターたち。『天使のたまご』が40年を経てなお世界のアニメファンや映画好きを魅了し続けるのは、そうしたトップクリエイターたちの才能を取り入れつつ、押井監督ならではの演出を施してできあがった作品だからかもしれない。