脚本家・岡田惠和の“容赦のなさ”が詰まった『イグアナの娘』 母と娘の物語は今も必見

 主演映画『近畿地方のある場所について』での怪演が評判の菅野美穂。彼女は1990年代、まだ新人の頃、ホラー映画にいくつか出て怪優の萌芽を見せつけていた。現在、TVerで期間限定で配信されている1996年放送のテレビドラマ『イグアナの娘』(テレビ朝日系)はその頃の主演作のひとつ。そこで彼女は“イグアナ”を演じている。いや、正確には、イグアナは独立した特殊造形で表現されているだけなのだが。「女子高生が実はイグアナ?」という興味を引かれるドラマである。

 原作は萩尾望都の傑作短編だ。わずか50ページほどの短編を全11回の長い物語に岡田惠和が脚本化した。原作もののドラマの場合、膨大な原作のどこを取捨選択するかも難しいが、短すぎる原作を増量するのも骨が折れそうだ。省かれた箇所は原作ファンには不満に感じられるし、オリジナルで足した箇所への判定にも厳しいまなざしを向けるだろう。はたしてドラマ『イグアナの娘』はどうだったのか。放送29年目にして検証してみよう。

 菅野演じる主人公・リカは生まれたときから、母親・ゆりこ(川島なお美)の目にだけイグアナに見えていた。ゆりこはイグアナのリカを毛嫌いし、その子と生活することに絶望し、娘を殺して自分も……と一度は思い詰める。

 やがて妹・まみ(榎本加奈子)が生まれると彼女ばかりかわいがってリカを遠ざける。父・正則(草刈正雄)にはリカはイグアナに見えないので、まみと区別なく愛してくれるが、それで母に愛されないコンプレックスが解消されることはない。

 なんとか愛されたくて、母の誕生日にプレゼントを買うと、センスがないとつれなくされ、家を飛び出したリカは入水をはかる。

 原作ではリカは自殺しない。醜いイグアナとして生まれたという運命を嘆きながらも、漫画のリカは不思議とからっと明るく前向きだ。イグアナでもチャーミングに見える。母親の娘への態度もどこかユーモラスで、ルッキズムと毒親という2大問題を描いているのに、読んでいてあまりしんどくならない。

 ところが、ドラマは、ゆりこのリカへの態度は厳しく、リカは陰の要素が強め。1990年代は明るいドラマも人気の一方で、野島伸司の『高校教師』(1993年/TBS系)『人間・失格〜例えばぼくが死んだら』(1994年/TBS系)なども代表される湿度が高く人を追い詰めていくドラマも人気だった。ドラマ版はどちらかというと、当時支持された登場人物の仄暗い内面に寄せていっているような気がする。

 リカが死のうとしたとき、通りかかった岡崎昇(岡田義徳)が助けてくれた。リカは自己評価が著しく低いまま成長し、高校生になり、同級生の昇への恋心を募らせていく。

 昇もリカを想っているが、いかんせんリカは自分は愛される存在ではないと思い込んでいて、何に対しても消極的でなかなか進展しない。このあたりからかなりオリジナル色が濃くなり、思春期の悩みを抱える主人公とその想い人・昇と友人たちーー親友・伸子(佐藤仁美)、リカに意地悪するかをり(小嶺麗奈)らの関わりを描いた学園青春ドラマの軸と家族の問題の軸との両輪で進む。

 伸子に選択性緘黙という精神疾患を設定したことで、高校生たちの、単なる思春期の悩みではなく、きちんとケアしないといけない病理に向き合おうとしているようにも見える。イグアナという表象も、子どもが自分の容姿を気にすることの暗喩とも解釈できる。美しい母親が自分とまるで似ていない子ども悩み「自分の子どもを愛せない悲しみ」というのも現実にありそうだ。

 令和のいま観るとリカの母・ゆかりは「毒親」そのものだ。母と娘の確執が「毒親」として日本で一般化したのは2000年代以降であるが、海外では1980年代後半から概念として語られていた。原作者の萩尾がこれを書いたのは1992年。萩尾自身、親との関係がうまくいかず、心理学などを勉強したうえで漫画にして長年、積もりに積もった気持ちを解放した。漫画を描くことがセラピーになるいいケースだ。

 まだ毒親という名前が一般的でなかった頃に、子どもを勝手にイグアナと思い込んで冷たくする母親の、子への強烈な執着、子どもと自分を切り離せない感覚に端を発する育児放棄。愛憎をこじらせた母に翻弄される娘がいかに自立できるか、難問の物語を削ぎ落として削ぎ落としてギュッと凝縮していた。

 母と娘の諍いを心理学的なアプローチも用いて描いた短編は、時代を先どりした珠玉作だ。

 もう一点、漫画とドラマの違いをあげておこう。母の誕生日のプレゼントは漫画とドラマでは違う。ドラマはスカーフで、漫画では手鏡。これが漫画だと後々効いてくる。母も自分の容姿に向き合うことを恐れていたのだ。

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