『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は“お疲れ様”な映画だ 伝わってくる制作陣の苦悩や混乱

 拝啓、トッド・フィリップス様。とりあえず、お疲れ様でした。少し休みましょう。Japanese温泉に行くといいと思います。日本の九州に湯布院という温泉地帯がありまして、食べ物も美味しく、気分をリフレッシュする旅行にはぴったりです。1週間くらい滞在して、ゆっくりするといいと思います。

敬具

 ……などと書きたくなるくらい、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(2024年)は、お疲れ様な映画である。作っている人間の苦悩・混乱・迷走が伝わってくる作品だ。正直なところ、私はノレなかった。本国で酷評される理由もわかる。一方で、心に深く刺さる人が確実にいるタイプの作品でもあるだろう。というのも、この映画には複数の視点が用意されている。『ジョーカー』の続編として、映画そのものを観るか? 映画に託された監督の思いを感じ取るか? ジョーカーではなく、アーサーの物語を期待するか? おおまかに分けて3つの視点があり、どこから観るかで評価は大きく変わるはずだ。

 本作は『ジョーカー』(2019年)の直接の続編である。生放送中に人気TV司会者を射殺したジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、精神病院アーカム・アサイラムに収容されて、囚人のような暮らしをしていた。そろそろ始まる裁判に備え、弁護士たちは「アーサーは多重人格のようなもので、殺人はジョーカーという別の人格が行った」という筋で勝負しようと考える。一方、アーサーが暮らすゴッサムシティでは、ジョーカーはカリスマ的な人気を得ていた。そしてアーサーは、ひょんなことからアーカムで音楽療法を受けていた女性リー(レディー・ガガ)と出会う。彼女はジョーカーの熱烈な信者で……。

 というわけで、お話的にも前作と完全に繋がっている、正真正銘の続編だ。この時点でそもそも疑問を持つ人もいるだろう。なぜなら前作は、信頼できない語り手の物語だったからだ。「これこれこういうことがあって、心優しいコメディアンの青年が、ジョーカーになっちゃいました」という話だったが、語り手はジョーカーなので、「でも、これもジョーカーの嘘かもね」というスタンスがあった。「前作が綺麗に終わった」だけではなく、「前作が全部まるっとシャレかもしれない」という状態で、前作の続きを作るわけで、どうしても無理が生じる。

 さらに映画のトーンは大きく変わっている。前作はブラックコメディの要素が強かった。アーサーがピエロ仕事の訪問先で、うっかり拳銃を落としてしまった時の「あっ」という気まずい一瞬や、ラストシーンの「ジョーカーのバカ野郎はどこだ!」と『こち亀』(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)的なマンガっぽい追いかけっこのシーンなど、喜劇と悲劇がまじりあった名シーンだ。

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