小川紗良「かけだしの映画たち」

瀬田なつきが描く愛おしい虚構 初期作『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』の爽快感

 さまざまな作家の、初期作を観るのが好きです。青さのなかに、その人の「好き」や「衝動」や「欲望」が詰まっているから。また、自分もかけだしの作家のひとりとして、背中を押されたり、負けてられないと掻き立てられたりすることがあるからです。初期作は荒削りであったり、未熟さを感じたりするものも少なくありません。その洗練されていない完璧さに、私は胸が高鳴ります。この連載では、作家の初期作を取り上げながら、そこにしかない熱や揺らぎに目を向け、耳を澄ませます。(小川紗良)

第2回『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』

 瀬田なつき監督の映画を観ると、走りたくなる。うまく走れもしないのに。渋谷、横浜、吉祥寺。井の頭線、ゆりかもめ、自転車でふたり乗り。軽やかに走りゆく少年少女を観ていると、自分の心も浮遊する。それは行くあての知れない風船のようにおぼつかなくて、それでいて何だかわくわくしてしまう。うまく走れるか、うまく歌えるか、うまくおどれるかなんて、どうだっていいのだ。まずは疾走、それから鼻歌、とりあえず小おどり!

 監督の映画の登場人物たちは、よくこっちを見てくる。見るだけにとどまらず、語りかけさえする。まるで虚構と現実の狭間を、確信的に行き来しているみたいに。「これは嘘、だけど今ここにいる私とつながる、本当」、そんな感じがする。この虚構と現実の絶妙なバランス感覚が、私が監督の作品に惹かれる最たる理由なのだが、最新作『違国日記』が比較的現実の側にあるとすれば、初期作『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』は瀬田なつき監督作品のなかでもかなり虚構に振り切った作品といえるだろう。

 みーくんとまーちゃんは、タイトルのとおり嘘つきだし、壊れている。彼と彼女は、8年前にある田舎町で起きた誘拐事件の被害者だ。高校生になった彼らが暮らすまちでは今、小学生兄妹の失踪事件と、連続殺人事件が同時に起きている。学校で、道端で、スーパーで、どことなく不穏な空気が漂うなか、みーくんとまーちゃんは再会し、同棲を始める。住まいとなったまーちゃんの家には、失踪中の兄妹が監禁されていた……。

 2007年から刊行されていたライトノベルが原作の本作に、私はまずとてつもない平成のノスタルジー(と同時に平成がすでに遠のきつつある寂しさ)を感じた。当時見ていた雑誌『Seventeen』トップモデルが演じる主人公、紺のハイソックスにローファー、シフォン生地のフレアスカート、お団子頭にシュシュ。紛れもない平成が、装いひとつからもあふれ出る。

 この時代の若者たちは、あらゆる物事の狭間にあった。90年代からゼロ年代へ、アナログからデジタルへ、リーマンショックが起き、2ちゃんねるが盛り上がり、AKB48が流行った。そんな時代の、虚無と高揚を織り交ぜたような私たちの「気分」を、この映画はタイムカプセルよのように閉じ込めて、観る者の心に解き放つ。「この物語はフィクションだけど、みんなも嘘つきだし、壊れてたよね?」とでも言うように。

 瀬田監督作品に幾度となく出演している染谷将太さんは、本作で何度もこっちを見てくる。「嘘だけど」というセリフとともに。「嘘」といってはぐらかしながら、「本当」を語る彼の姿は、映画の妖精みたいだった。うつろな目、下がった口角、淡々とした声色。妙な落ち着きで、ひたすらまーちゃんの味方に立つその狂気じみた姿は、虚構的でありながらその世界にちゃんと存在している。映画という作り物を通してあぶり出される真実を、彼の身体が、スクリーンから私たちの心へと運んでくれる。

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