『マッドマックス:フュリオサ』徹底解説 『怒りのデス・ロード』からの継承と新たな視点

 興味深いのは、ディメンタス将軍のキャラクターである。ときに宗教的な救済者を装っていたり、ローマの戦闘用馬車(チャリオット)を模したような複数台のバイクを組み合わせたモンスターマシンを乗りこなす英雄風の人物であったり、民衆を搾取する怠惰な権力者になったりなど、その性質は絶えず変化していくのだ。そんな彼の気まぐれには、非常に人間くさいものがあり、冷酷かつ醜悪なイモータン・ジョーのキャラクターよりも、少なくとも表面的には親しみが持てる面があると感じられる。

 故ヒュー・キース=バーンから本作で役を受け継いだラッキー・ヒューム演じるイモータン・ジョーや、人食い男爵(ジョン・ハワード)らは、本作でも度を超えた悪人ぶりを見せている。ディメンタスがジョーの根城とする「シタデル」に降伏を迫ったときに、ジョーらはディメンタス側に任意で一人のウォー・ボーイズを指名させ、選ばれた一人の若い命を自爆で散らすように指示するのだ。この狂気の“余興”によって、ジョーに従う全ての戦士一人ひとりが、躊躇なく命を捨てられるよう教育されていることを相手に示し、底知れぬ恐怖を与えることに成功するのである。

 そんなことが平気でできる狂気や悪辣さは、過激化しきったカルト宗教や末期的なファシズム国家にも匹敵するもので、さすがのディメンタスもおそれをなして退却を余儀なくされることとなる。悪逆の限りを尽くすことのできる人物だと自認していたディメンタスだったが、ジョーたちの集団ほどには狂ってもいなかったし、そこまで醜悪にはなりきれなかったというところだろう。

 とはいえ、ディメンタスもまた目的のためには部下を残忍に切り捨てる選択をし、親が殺される姿を子どもに見せて楽しんだり、自分の亡くなった娘を重ねるようになっていたはずのフュリオサを、利益のためにジョーに売り渡し、“モノ”として扱うところが描写されているように、それでも基本的には“有害な男性”という点で、ジョーらと同じ穴のムジナであることが示されている。

 若い時代には人形のようにもてあそばれ、さらには子どもを産む機械とみなされ、その後は乳牛のように母乳を出す家畜として扱われる、イモータン・ジョーが作り出した地獄のような搾取システムを目の当たりにしたフュリオサは、ディメンタスやジョーが権力を握る社会において、女性は搾取される存在であることを、真に理解するのである。前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で描かれたのは、そんな構造への反発であり、女性の手に権利と意志の自由を奪い返す革命的な戦いであったことが、本作でより理解できるようになっているといえよう。

 そんなひどい環境下においても、信頼できる男性はわずかながら存在する。それが、フュリオサの面倒をみるようになる、シタデルの警護隊長ジャック(トム・バーク)である。巨大な戦闘タンク車「ウォー・リグ」を、ドライバーとして自身の身体のように使いこなす彼は、あくまで仕事上のパートナーとして、卑劣な見返りも求めず優れた運転技術をフュリオサに伝授する。そして二人は、互いに支え合う関係になっていくのである。

 そんなジャックの姿が、どことなくトム・ハーディの演じていたマックスに似ていることから、のちにフュリオサが全ての男性を嫌悪するまでには至らず、マックスの人間性を信じることができたという理由が、観客に想像できるようにもなっているのだ。このように、前作で空白になっていた部分が埋められるという意味で、本作と前作はそれぞれを互いに補完しているところがあるといえる。

 しかし、前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の最大の見せ場といえば、広大な荒野を延々と走り続ける巨大な車の爆走する姿であり、直線的な運動が持続していく、映像的快感であることは間違いない。その豪快な動きが途中で切り替わり、逆の動きを見せていくところが、フュリオサやマックスたちの心境の変化や覚悟と連動していたところに、映像と脚本がしっかりと噛み合った美しさがあったのである。

 そのようなシンプルかつ豪快な趣向こそが前作の素晴らしさであり、他のアクション映画を圧倒する点だったことを考えれば、それ以外にもいろいろな展開が用意されている本作は、その意味においては比較的スタンダードなアクション映画にとどまることになったといえるかもしれない。とはいえクライマックスでは、これまで理不尽な状況から逃げ続け、自身を偽って隠れるしかなかったフュリオサが、やはり反転して敵を追いつめる立場になる展開が用意される。そこで彼女は前作同様に、真の“怒れる女”フュリオサとして追撃を開始するのである。

 しかし、フュリオサに運命を握られたディメンタスは、不穏なことを告げる。過去の悲劇や復讐心とらわれる彼女は、同じように悲劇に見舞われて道を踏み外すようになった自分と変わらない、呪われた存在だという意味のことを言うのである。もちろん、それは直接的な加害者が被害者に対して言うべき話ではないが、良心を持った人物に動揺を与える言葉であることも確かだ。

 だが最終的にフュリオサが、自分の地位を投げ捨てて危険に踏み入るリスクを負いながら、「子産み女」たちを救出するという、前作の物語に繋がる選択をする姿は、彼女が自分の個人的な感情のみに突き動かされ、単に報復合戦をしようとしているわけではない証明になっているといえよう。フュリオサ個人の戦いは、自分の境遇を含め、多くの女性たちの悲劇を生み出すシステムそのものに風穴をあけようとする、大きな戦いにも繋がっていたのである。

 屈服させ搾取しようとする理不尽な力に対し、自分のために戦うことも、他人のために戦うことも、不均衡な社会の構造を変える革命への道になり得る。本作『マッドマックス:フュリオサ』は、その部分において前作の考えを深掘りしているといえるのだ。

■公開情報
『マッドマックス:フュリオサ』
全国公開中
監督:ジョージ・ミラー
出演:アニャ・テイラー=ジョイ、クリス・ヘムズワース
配給:ワーナー・ブラザース映画
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公式サイト:MADMAX-FURIOSA.jp

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