『GTO』鬼塚英吉の言葉はなぜ人々の心を動かすのか? “伝説のドラマ”をプレイバック

 令和のエンタメに慣れてしまったからだろうか。平成のドラマを観ると、「パンクだなぁ」と思うことがある。コンプライアンスなどお構いなしの破茶滅茶なストーリー展開。視聴者のなかにある固定観念を、無理やりぶち壊してくる感じ。1998年版『GTO』(カンテレ・フジテレビ系)も、久々に観たら「そんなことしていいの?」と驚くシーンの連続だった。

反町隆史が『GTO』26年ぶり復活に込めた思い 「現状に対して力を込めて“ノー”と言いたい」

1998年に放送され大ブームを巻き起こした『GTO』が一夜限りの復活を果たす。カンテレ・フジテレビ開局65周年特別ドラマとして4…

 教師といえば、真面目で頭が良くてどんなときでも明るくて……というイメージを抱く人が多いと思う。筆者も学生の頃は、「先生になる人は、生まれながらに先生なんだろうなぁ」なんて思っていたこともある。年齢を重ねて教師の友人ができたりすると、「なんだ、先生もふつうの人間なんだ」と気づくようになるものだが、学生のころはどうしても雲の上の存在という印象があった。それと同時に、「どうせ、先生にわたしの気持ちなんて分かるはずがない」と思ってしまったこともある。先生にだって10代の頃があり、いろいろな葛藤を抱きながら生きてきたはずなのに。

 きっと、一般的な教師は、そういった部分を隠しながら生きているのだろう。子どもっぽい部分や、情けないところ。カッコ悪い部分は隠していかないと、説得力がなくなってしまうから、仕方がないのかもしれない。

 でも、『GTO』の鬼塚(反町隆史)はすべてをさらけ出していた。先生は、雲の上の存在じゃない。生まれながらに聖人であるわけでもない。元暴走族の鬼塚は、失敗もたくさんしてきた。だからこそ、悪さをしでかす生徒たちの心の揺れを、機敏に感じ取ることができる。生徒たちと同じ視線で、物ごとを考えることもできる。ほかの教師たちが、「クズは直らない」と突き放しても、鬼塚だけは彼らが更生することを信じて、向き合い続けるのだ。

 鬼塚の常軌を逸した教育の数々。たとえば、第1話で鬼塚は、生徒のナナコ(希良梨)が、両親が家庭内別居をしていることで寂しさを感じていると知る。すると、ナナコの家まで出向き、夫婦を阻んでいる壁をハンマーで破壊するのだ。そんなことをすれば、教師をクビになってしまうかもしれないのに。バカみたいだけど、そういう破茶滅茶な行動が、凍っている10代の心を溶かしていく。

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