『春になったら』“死”がテーマなのに暗くない理由 雅彦と瞳が教えてくれる大事なこと

 「今期、いちばんハマっているドラマは?」と聞かれたとき、『春になったら』(カンテレ・フジテレビ系)が真っ先に浮かぶ。

 余命3カ月の父と、結婚を間近に控えた娘が織りなすホームドラマ。この設定ならば、思い切って視聴者を泣かせる方向に舵を切ってもいい気がするが、あからさまな“お涙頂戴”に持っていかないところが好きだ。「泣くぞ!」と思って観るというよりは、いつの間にか涙がホロッと溢れているような。すべての悲しみを包み込んでくれる陽だまりのような世界観が心地いい。

 『春になったら』は、死をテーマにした作品にもかかわらず、影よりも光、夕焼けよりも朝日、冬よりも春が似合う。それは、雅彦(木梨憲武)が、残された時間で後悔の芽を摘んでいく姿にスポットを当てているからかもしれない。

 わたしは本作を観るまで、死に向かうというのは、ただただしんどくて、苦しいだけのものだと思っていた。だから、瞳(奈緒)が「治療を受けて」とお願いしても、「それはできない」とかたくなに拒否する雅彦のことを自分勝手だと思ってしまった。人はひとりで生きているわけじゃない。誰かが死ぬというのは、当人だけでなく身近な人たちの人生まで揺るがしてしまうのに、と。

 確率は限りなく低かったとしても、治療をしていたら“希望”を持つことができる。もしかしたら、5年生きられるかもしれない。ひょっとしたら、それ以上生きられるかもしれない。たとえ、ささやかな光だとしても、瞳はその光を目印に、自分を騙しながら生きていける。

 その一方で、治療を受けないことを許可してしまえば、雅彦が死にゆくのを認めることになる。桜が咲く季節まで、一緒にいられるかどうか。それ以上の希望を抱くことはできない。娘に、そんな選択をさせてしまうのは、あまりにも酷なのではないか、とも思った。

 しかし、雅彦の人生は、あくまでも雅彦自身のものだ。父に少しでも長く生きてほしい瞳と、最後まで“お父さん”のままでいたい雅彦。どちらの気持ちもよく分かるからこそ、涙が止まらなかった。

 “後悔のない死”など、この世には存在しない。遺された方も遺した方も、必ずどこかに「もしも、あのとき」という気持ちを抱くものだ。それでも、死ぬまでにやりたいことリストに書いたことを叶えていく雅彦を見ていると、こういう死に方もありなのかもなぁと思えてくる。

 もちろん、雅彦も死ぬのが怖くないわけがない。瞳が「お父さん、死ぬの怖くないの?」と聞いたときの表情。ずっと強がっていた雅彦も、さすがに「怖くない」とは言い切れなかった。

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