『マスクガール』は“囚われ続ける”私たちの隣人だ ルッキズム風刺のみではない演出の妙

 近年、人間の価値を測るうえで「外見」を最も重要な要素とする考え方、ルッキズムを風刺したエンタメ作品のヒットが後を絶たない。一例として、韓国映画『整形水』やWebtoon『外見至上主義』などは記憶に新しい。その系譜に新しく名を連ねたのが、メミ/ヒセによる同名Webtoonの原作をドラマ化した『マスクガール』である。

 外見主義に囚われた社会を風刺した作品における王道の展開は、社会で暮らす若者たちの生きづらさが描かれたうえで、自分自身を受け入れ、外見に左右されない生き方を勇気づけるものだ。しかし『マスクガール』は、これまでに作られてきたルッキズム作品とは異なるメッセージ性を持つ。

 主人公のキム・モミ(イ・ハンビョルら複数の俳優が演じている)は、顔にコンプレックスを抱え、外見主義に苦しむ女性である。幼い頃から華やかなステージを夢見ていたモミだったが、ダンスや歌の実力があっても容姿を理由に夢を否定され、気づけば一般企業で働く27歳になっていた。しかし、モミには誰にも話していないもう1つの顔があった。彼女は家に帰ると、顔がすっぽりと隠れる分厚いマスクをつけ、世間の注目を集める人気配信者「マスクガール」として活動しているのだった。

 とはいえ、本作はモミが「マスクガール」として成功を収め、ルッキズムに支配された社会にスカッとするような制裁を与えていくことに重点が置かれているのではない。どちらかといえば多様性が謳われる世の中に救いを感じつつも、「見た目なんて気にせず生きていこう」と言い切れないまま取り残された感覚を持っている人にこそ刺さる展開をする。

 モミは最終的にほぼ全てのパーツを整形をすることで美しい見た目を手に入れるわけだが、『マスクガール』を観ていると、モミがその決断に踏み切った理由が痛いほど伝わってくる。世間の物差しの中での“美しい”を手に入れることができなかったがゆえに、様々なものを手放し、本来傷つかなくてもいい場面で虐げられてきたモミ。“美しさ”で人を評価しないと感じていた気になる上司が、結局のところ、かわいいと社内でもてはやされている後輩に思いを寄せていたりなど、そのリアリティも絶妙だ。だからこそ彼女は、今の顔を愛する(もしくは愛してくれる人を探す)のではなく、全てを変えることを決断したのだろう。

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