『イニシェリン島の精霊』に込められた、世界を救う一抹の希望 真の“アイルランド魂”とは

 衝撃的な人間ドラマが展開する映画『スリー・ビルボード』(2017年)で、監督、脚本家として絶大な評価を受けることになった、マーティン・マクドナー。多方面からの期待を浴びながら公開された次作は、1920年代のアイルランドの島を舞台にした、『イニシェリン島の精霊』だった。

 もともと、過激なコメディ描写と、入り組んだストーリーを得意としていたマクドナー監督は、『スリー・ビルボード』の成功において、ある“黄金比”を体得したように思える。それが、本来コメディとして描かれる要素を、的確なバランスでサスペンスへと転化させる、絶妙な感覚である。それを引き継いだ本作『イニシェリン島の精霊』もまた、奇妙なユーモアや過激なアイデアが、身も凍る緊張感や、人間の生き方や社会を考えさせるドラマとして表現される、異様な一作となっている。

 しかしながら、『スリー・ビルボード』や、『セブン・サイコパス』(2012年)などの、マクドナー監督の過去作と比べても、物語の意味がつかみづらく、難解さが一段上だと考えられる『イニシェリン島の精霊』。ここでは、この作品で何が描かれていたのかを、できるだけ深いところまで考察していきたい。

 舞台となる「イニシェリン島」は現実には存在せず、アイルランド西部のアラン諸島にある島という設定になっている。ロケ地の一つとなった、実在するイニシュモア島は、石灰岩に覆われた荒野と、その岩を積み重ねた「ドライ・ストーン・ウォール」が広がる農村地帯、切り立った巨大な断崖などが特徴的で、本作の舞台となる、荒涼とした風景のイメージの多くを占めている。

 そんな、人間の小ささを意識させる広大な舞台で物語の中心となるのは、気のいい“善良な”男パードリック(コリン・ファレル)と、彼が親友だと思っていた、作曲やフィドルの演奏を趣味としているコルム(ブレンダン・グリーソン)との諍いだ。ある日パードリックは、いつものようにパブでスタウトビールを飲み交わそうと、コルムを尋ねに行く。当時のアイルランドでは内戦が勃発する時期だったが、そんな激動の時代とは切り離されたように、彼は満足そうに友人との会話を楽しみにして歩みを進め、その背後には虹まで輝いている。

 だがパードリックは、コルムが露骨に自分を避けていることに気づいてしまう。しつこく追いかけ、なぜ自分と話したがらないのかと直接疑問をぶつけると、コルムは「人生の時間を、お前と話すことで無駄にしたくない」と答えるのだった。つまりは知的レベルが違うので、交流し続けても自分にとって利益がないから距離をおきたいということだ。

 ここまで直接的に言うかどうかは別として、一念発起して自分の環境を変えたいと思い、これまでの友人関係をリセットしたいという話は、ありふれたケースではある。とはいえ、ここは隔絶された島だ。人口が少なく、誰もが顔見知りといってもいい環境において、自分の都合だけで友人関係にあった者を一方的にシャットアウトするというのは、少々過激な振る舞いに感じられる。新しい知的な人脈といえば、島に訪れる音大生くらいしかいないのである。

 だが、ここでパードリックが大人しく身を引いてさえいれば、事態は終息していただろう。にもかかわらず彼は、執拗にコルムの前に現れては、不満の意を表すのだった。雄大な景色とは裏腹に、中年もしくは初老と言ってもいい、いい歳をした男たちによる、スケールの小さい個人的な友人関係のトラブルが、メインのストーリーとして展開していくことに、われわれ観客は驚くことになるはずだ。

 しかしコルムが、「これ以上話しかけてきたら、自分の指を切り落とす」と、真剣な表情で宣言したことで、空気は一変する。話しかけてくる度に、一本、一本と指を切断するのだと。そう言われて一時はたじろぐパードリックだったが、そんな常軌を逸した行動をとるわけがないという過信からか、あろうことかコルムに再度つめ寄ってしまう。

 このあたりから二人の意地は、余人には理解し難い別次元へと移行する。これは、生き方の違いによる理想の押し付け合いだととらえることもできるし、裏に隠された同性愛からくる激しい感情のぶつかり合いだと解釈することもできるだろう。いずれにせよ、ここでふいに現れる暴力性というのは、『スリー・ビルボード』でも描かれた、周囲をたじろがせるほどの、狂気にも近い強固な信念に通底しているのではないかと考えられる。

 コルムの言ったことを信じるならば、彼にとって友人関係とは、価値ある知識のやりとりのできる相手がいるということであり、持ち合った情報を分け合えるかどうかという基準で測れるものだと考えられる。つまり、知識をある種の“通貨”として扱うということだ。インターネットが存在しない時代に、最果ての地で思うように書物にアクセスできない環境では、知識に飢えるのは仕方がないことなのかもしれない。

 パードリックは、その“通貨”を持たないことによって拒否されるということになる。そこで彼は、“優しさ”や“思いやり”という通貨もあるのではないかと、コルムにうったえかける。だが、たとえそれが通貨として機能していたとしても、コルムは欲していないというのだ。そして、「“優しさ”で、死後覚えられている人物はいるのか?」と問いかける。そこでパードリックは、「俺の妹は優しいぞ! 俺は彼女の優しさを忘れない」と切り返すのだった。

 不器用でピントが外れた言葉ではあるが、同時に胸を打つセリフでもある。果たして、人間の価値とは、知識や技能、業績によって判断されるべきなのか。それとも、善良さによって決まるべきものなのだろうか。

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