『ラック~幸運をさがす旅~』はピクサー的な作品に 宮﨑駿作品などにも通じる高揚感
『ミッション:インポッシブル』シリーズや『トップガン マーヴェリック』などを手がけるスカイダンス・メディア。そのアニメ部門である「スカイダンス・アニメーション」は、2017年にスカイダンスが買収したスペインの「イリオン・アニメーションスタジオ」を前身として、ディズニー、ピクサー、それに続くイルミネーション、ドリームワークス、ブルースカイなど、一線級のアニメーションスタジオの一角になることが期待されている、新しい製作会社だ。
そんなスカイダンス・アニメーションの長編『ラック~幸運をさがす旅~』が、「Apple TV+」で配信された。本作が注目を集める理由は、ディズニー、ピクサー両アニメーションスタジオの製作を統括していた、あのジョン・ラセターがプロデューサーに名を連ねているということ。
名実ともにアニメーション業界の“トップ・オブ・トップ”だったラセターは、女性社員にセクハラ行為をしていたことが判明したのち、ディズニーとピクサーを離脱し、現在は「スカイダンス・アニメーション」の代表を務めている。このスカイダンスの人事については批判の声も小さくない。だが同時に、新興のスタジオにとって彼が有用な人材だったことも確かだろう。
ここでは、そんなラセターも手がけた、本作『ラック 幸運を探す旅』の内容を振り返りながら、その出来や作品に含まれたメッセージを考えてみたい。
本作のテーマになっているのは、タイトル通り「ラック(幸運)」である。いつも「運が悪い」と言われている女の子“サマンサ(サム)”は孤児院で育ち、引き取り手がないまま18歳を迎え、自立のときを迎える。彼女は小さい頃から自分を愛してくれる家族に出会うことを望んでいたが、“運が悪く”思い通りにならなかったのだ。
たしかに運の良し悪しというのは、現実の人々にとって大きな問題だ。どんな場所、どんな家に生まれるか、そしてどのような環境に巡り合うのかは、その人の人生に多大な影響を与えることになる。そこは個人の努力だけではどうにもならない領域である。
本作は、そんな不可抗力な要素を深堀りするため、人間界に幸運を届ける「運の国」というファンタジックな場所に、この主人公を導いてゆく。サムは、孤児院の小さな友人が家族を見つけられるよう、幸運のお金「ラッキーペニー」を見つけるため、現実と運の国を行き来する黒猫“ボブ”とともに冒険を繰り広げることになるのだ。
ジョン・ラセターが製作に加わっていることで、スタッフにはディズニー、ピクサー出身のスタッフの顔ぶれも目にするが、その多くはスペインのイリオン・アニメーションスタジオの生え抜きである。キャラクターの表現や美術の見栄えは、業界の頂点にいるディズニーやピクサーと比較すると、現時点では数段落ちてしまうことは否めない。
例えばディズニーは、傑出した才能を持ったアーティストたちのイマジネーションが反映され、短いシーンにも数多くの一流のスタッフによる試行錯誤が活かされているし、ピクサーは、各部署で業界を変革するような試みをそれぞれが行い、新たな領域を最前線で切り拓いている。そのスタッフたちの層の厚さを考えると、スカイダンス・アニメーションがこれらとの差を埋めるには、まだ時間や労力を要することになるだろう。
本作の設定や物語にはディズニーの『アナと雪の女王』(2013年)やピクサーの『インサイド・ヘッド』(2015年)の要素を感じられる。だがそれだけに、数多くの卓越したスタッフの力によって達成された、『アナと雪の女王』のキャラクターの圧倒的な魅力や、『インサイド・ヘッド』の抒情的な雰囲気や美術の洗練と比較すると、やはり不満を感じるところがある。とはいえ、それらがアニメーションの魅力の全てというわけではない。
本作で最も驚かされるのは、物語の最後に黒猫のボブが発するセリフである。それは唐突にも感じられるが、まるでそれが魔法の言葉であるかのように、観客の心を一瞬でとらえ、一言では言い表せないような感情を生み出そうとする。ここまで鮮烈な体験は、ディズニーやピクサー作品でも稀だといえるのではないか。しかし、この一種の“魔法”は、どこからやってくるのだろうか。