コーエン作品とシェイクスピア作品の意外な親和性 『マクベス』に漂う“本格派”の風格

 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』は、オーソン・ウェルズや黒澤明、ロマン・ポランスキーなど、名だたる巨匠監督たちが映画化を手がけ、映画の分野においても親しまれてきた題材だ。ジャスティン・カーゼル監督によって、2015年にも数度目の映画化を果たしたばかり。その人気の理由は、シェイクスピア悲劇の中では比較的短く、ちょうど一本の映画作品にしやすいボリュームであるとともに、誰もが認める深い芸術性と、現代にも通じる美学が存在するからだろう。

 ここで紹介する、A24製作のApple TV+配信作品『マクベス』を手がけたジョエル・コーエン監督もまた、現代においてキャリアでは巨匠監督の一人に数えられる存在である。優れたセンスで数々の異色作を撮りあげてきた彼が、ついにこの古典に挑戦することとなったのだ。意外なのは、これまで彼とともに「コーエン兄弟」として数々の作品を共同で監督してきた、弟のイーサン・コーエンが製作に加わっていないということ。

 これまでも、一時的にイーサンが監督としてクレジットされていないケースはあった。しかし、子どもの頃から共にカメラで映画ごっこを楽しみ、実質的に協力しながら映画を撮り続けてきたイーサンが今回タッチしていないというのは例外的なことだ。海外メディアでは、イーサンが映画制作について、ここで一区切りをつけたのではないかという、兄弟作品の音楽を長年担当してきたカーター・バーウェルの見解を紹介している。

 さて、ジョエル・コーエン監督の単独作品となった『マクベス』(原題は『The Tragedy of Macbeth』マクベスの悲劇)は、それでもコーエン作品のさまざまな特徴が楽しめると同時に、挑戦的なものとなった。

 モノクロ、スタンダードサイズというクラシカルな画面、全編で屋内セットでの撮影を敢行し、そこにCG合成を加えることによって、本作は実写の俳優たちを囲む、印象的な“動く書き割り”としてのアニメーション表現を確立している。そのような試みの裏には、新型コロナウイルスのパンデミック後の撮影であることや、予算上の都合があることが想像できる。しかし、そうやってかたちづくられた現実離れした構図や、心象風景が具現化された映像は、かつてドイツやロシアで隆盛した芸術表現「表現主義」に近く、巨匠セルゲイ・エイゼンシュテイン監督作品の美学をも想起させる面白さがある。

 CG技術を利用してはいるものの、その根っこには、実写の画面に絵や写真を合成するような、むしろ映画製作においては伝統的な古い手法が念頭にあるのではないだろうか。これによって本作は、現実には存在しない異様な風景や、時代設定を飛び越えるような奇妙な建築が次々現れることになったのである。例えば、劇中の中盤に登場する、石造りの建物の極度に縦に伸びたゴシック風の出入り口の特異な形状を見てほしい。白と黒のコントラストによってミニマリスティックに整理された色調に、ディフォルメされた表現が加わることで、“漫画的”なまでにビジュアルが単純化されている。重厚なようで、軽妙洒脱なのだ。

 ときに、ふざけているのではないかと思うほど、幾何学的に整理された実写表現へのフェティッシュは、もともとコーエン監督の際立った作家性だといえる。そしてウェス・アンダーソン監督の先駆ともいえる、このような感覚が、本作においては戯曲『マクベス』が本来持っている、超現実的な物語と演劇性のなかで、意外に題材にマッチしているように感じられるのだ。コーエン作品とシェイクスピア作品に、このような親和性が存在していたというのは、驚くべき発見だといえよう。そして、この自然な印象が与えられる演出からは、コーエン作品としては異例にも、“本格派”の風格が漂うのである。

 コーエン作品のファンは、むしろこの正統的な雰囲気に困惑するかもしれない。これまでの作品で劇中のドラマに生じてきた、ポストモダン風のゴツンとした“違和感”こそが、ある種の底知れない印象を観客たちに与えてきたからだ。アカデミー賞作品賞、監督賞を受賞した『ノーカントリー』(2007年)ですら、この作家性が作品自体を“本格的な映画”であることを拒否させていた印象がある。さらに、シェイクスピア悲劇であることで、いつもの軽快なユーモアが分かりやすく表に出ていないことも確かだ。

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