『ミラベルと魔法だらけの家』はディズニー作品そのもの? 主人公の複雑さが意味するもの

 美術を統括するプロダクションデザインに、今回初めてローレライ・ボーブが加わっているところにも注目したい。かつてディズニーでは、メアリー・ブレアという、『ふしぎの国のアリス』 (1951年)や『ピーター・パン』(1953年)などの名作の色彩設計やコンセプトとなるイメージを作り上げる天才的なアーティストが才能を発揮していたが、ローレライ・ボーブは、まさに現在のスタジオで彼女のような役割をこなすスタッフの一人である。キャラクターだけでなく、数々のシーンにボーブのセンスや色彩感覚が反映されることで、本作には胸躍るような楽しさや華やかさが加わっているのだ。

 ミラベルについての挑戦は、表面的な造形だけにとどまらない。栄光の家に生まれながら「魔法のギフト」を受け継ぐことができなかった存在として、主人公が描かれるという試みは、非常にユニークである。魔法を持てないことが悩みだというのは、『アナと雪の女王』で魔法の力を持っていることで苦しんでいたエルサとは真逆の立場だといえよう。ミラベル本人は、その事実を受け入れ明るく振る舞っているものの、かつて「家族の誇りになって」と語りかけた祖母アルマの期待に応えられないことで、劣等感や疎外感を味わっているのだ。そして、それを家族の誰にも言えず隠しているところは悲痛である。

 ここでの状況を現実の世界に置き換えると、「魔法のギフト」とは、“人より秀でた能力”のことであると解釈できる。親や姉妹たちが何かしらの成功や実績を積み上げているのに、自分は誇れるようなことをできていず、そのことで親族の集まりなどの際に居心地の悪い思いをしたり、プライドを傷つけられるという経験は、少なくない人々が味わっている現実的な事態である。そんな感情を拾い上げているところが、本作ならではの先進的な部分であるといえよう。

 留意してほしいのは、そもそも本作が「ディズニー作品」であるということだ。これまでディズニーは、時代とともに先進的な思想をとり入れてきたが、同時に保守的な価値観を描き続けてきたことも確かである。そんな矛盾の象徴といえる『アナと雪の女王』は、王権政治という前時代的な価値観を否定せず、女王や王女という特権的な存在に憧れを持たせながら、その上で従来からの“王子とのロマンス”という物語に疑問符を突きつけている。保守と革新、二つの価値観が作品に相剋を発生させ、スリリングな独特のテーマを背負っているのだ。

 現在はディズニーの傘下にあるピクサー・アニメーション・スタジオは、もともとウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオと異なるコンセプトを目指し、ミュージカル表現を避け、特権的な存在よりも庶民の問題を描くことが少なくなかった。その意味でピクサーは、その種のプレッシャーや矛盾を抱えることなく、比較的自由なアプローチで物語を描くことができる。ディズニーのアニメーション大作がCGによる製作に移行したいま、ピクサーとの違いが見えにくくなってきていることは確かであり、本作は実際にピクサーの『リメンバー・ミー』(2017年)の題材とも、よく似ているところがある。とはいえ、根本的なアプローチは異なっている。

 本作が『リメンバー・ミー』よりも、さらに家族という集団の美点や血のつながりという価値観を守ることを重要な点として描いているのは、本作があくまで「ディズニー作品」だからだといえるだろう。家族の価値を描くことは、子ども向け作品としては当たり前だと思うかもしれない。だが、より進歩的な立場をとった、カナダのCGアニメーション『ウィロビー家の子どもたち』(2020年)では、実の親に育児放棄された子どもたちが主人公となり、血のつながりによる家族の絆を否定する内容を描いているのだ。

 どんなに努力しても、子どもが親に心を開いて愛情を示したとしても、徒労に終わる場合もある。それは悲しいことには違いないが、現実に子どもが親を選べない以上、家族や血のつながりから脱却するメッセージに救われる観客も存在するはずである。その意味で、依然として家族の価値を描く『ミラベルと魔法だらけの家』は、ある種の観客には抑圧と映る場合もあるだろう。

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