『トイ・ストーリー4』なぜファンが戸惑う内容になったのか? 作り手のメッセージから読み解く

 本来は使い捨てとして作られた先割れスプーンがベースとなっているフォーキー。そんな存在が意識を持ったとき、自分をゴミだと認識したというのは、ある意味当然のことかもしれない。彼は与えられた役割を全うしているだけなのだ。しかし、彼はウッディの助けや数々の出会いもあって、自分にはそれ以外の可能性があり、設定された役割を超えた幸せがあるということに気づき始めることになる。

 そんなフォーキーの姿を目にしていると、本シリーズが描いてきたような、“子どもに遊んでもらう”ことが、おもちゃの最も重要な役割であり幸せだという、第3作のラストに疑問が出てくるはずである。なぜなら、ウッディたちもまた、おもちゃ本来の役割に従っているだけだからだ。

 「本来の役割を生きることに何の問題がある?」と思うかもしれない。だがその考えは本当に全てのおもちゃに当てはまるのだろうか。

 現実の世界に生きるわれわれ人間も、幼少期から大人になるまで、いろいろな場面で、あるべき生き方や将来を示される場合がある。例えば、条件の良い就職先を見つけて、異性のパートナーと一緒に家庭を持ち、子どもを育て上げ、老後を迎えるというような、“万人向けの幸せ”である。国や地域、生まれた家や周囲の環境によって、その内容は異なるだろう。

 しかし、そのような生き方や趣向にそぐわない人や、それを手にできない人はどうすればよいのか。そんな人は“本来の生き方”ができていない、不幸せな人間なのだろうか。示される幸せのロールモデルというのは、ときとして、そこから外れた者にとって、一種の圧力をともなうものになるのではないか。

 シリーズ第3作は、その意味においては多様な幸せのかたちというものを、しっかりと描き得てはいないように思える。子どもを中心とした観客たちに向けた作品として、それは本当に“完璧な”ラストだったといえるだろうか。

 そのことを自覚的に表現しているのが、本作におけるウッディの境遇である。彼はかつての持ち主だった少年アンディの一番のお気に入りだったが、ボニーのお気に入りのおもちゃにはなれず、クローゼットの中で不本意な思いを抱きながら生きることになる。そして、フォーキーを助けることで、間接的にボニーを幸せにしようとするのだ。ウッディには、もはやそのくらいしかやれることはない。どうしても、隅で忘れ去られてしまうおもちゃというのは、出てきてしまうものなのである。

 そんなウッディに、運命的な出来事が起きた。ボニーのキャンプ先で、かつての仲間である、陶器製の人形ボー・ピープと奇跡的に再会するのだ。彼女は持ち主が変わっていくことであちこちが破損していたが、いまでは最後の持ち主だったアンティークショップから脱出、以前までとは装いも変わり、活動的に人生を楽しんでいた。つまり彼女は、本来の役割から外れても幸せに生きることができる新たな存在だったのだ。

 西部劇のヒーローを気取るように「オレは古いおもちゃさ」と語っていたウッディは、ボーとの出会いを経て、フォーキーの生き方を自らが変えたように、自分自身もこれまでの生き方や価値観を変化させようとする。いままで信じていた生き方から抜け出すことは、つらく困難なことだ。しかし、人が生まれながら幸せを追求する権利を持っているように、意志を持ったおもちゃもまた、好きな生き方を選んでもいいのではないだろうか。

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