山崎賢人が体現する“裏方”としての戦い方 『羊と鋼の森』は音の感動を“体感”できる

 鬱蒼と生い茂る森の中を分け入って、外村直樹(山崎賢人)は一歩ずつ、静かな足取りで進んでいく。森に囲まれて育った彼は、ピアノの“いい音”を聴くと森の存在を感じるのである。

 思いがけずある職業に、ふとした瞬間に心惹かれ、それに就いている自分の姿を夢想することがある。名画座通いが日々の楽しみであった筆者にとってその職業とは映写技師であり、例えば『氷点』(1966)や『積木の箱』(1968)といった作品のフィルムを、皆が視線を向けるスクリーンに映し出すところを想ってみたりしたのだった。映画『羊と鋼の森』の主人公・外村の場合は、それが調律師であり、彼はそれを実現させた。

 北海道の大自然を舞台に、1人の調律師の青年の成長が綴られた宮下奈都による同名小説の映画化であるが、原作を手にし、一息に読み終えてしまった身としては、この映画は非常に長く感じてしまう。活字を追いながらその姿を想像していたのに対し、いざ調律師が主人公の物語を映像として目の当たりにすると、まったくの門外漢である筆者が誤解を恐れずに言葉にすれば、やはり「地味だ」と思ってしまったのが正直なところであるのだ。しかしそれは当然のことだろう。彼らが支えるピアニストの存在には、演奏のためにカラダを動かすという身体性を伴った視覚的な感動があり、その奏でられた音には聴覚的な感動がある。一方の調律師には、繊細さが要求される控えめな動きしか見られず、調律するにあたって彼らが発する音は、あくまで“鳴らした音”であり、奏でられたものではないのだ。

 だがこのことから、ひとつの事実を確認することができる。当然のことながら、彼ら調律師が、“支える存在”、“影の存在”であるということである。劇中で調律師たちがみな口にするように、彼らは一様に裏方であるということに自覚的だ。カメラはときに彼らの指先を、シリアスなまなざしを、そして“羊”の毛でつくられたハンマーを、それに弾かれる“鋼”の弦を、じっくりと注意深く捉えていき、それらひとつひとつを私たち観客に注視するように促してくる。吹き出す汗を外村が拭う姿と呼応するように、じんわり汗が浮き上がってきたのは筆者だけだろうか。それらの厳粛さを強いる映像に、私たちはいわば拘束されるのである。

 しかしだからこそ対照的に、カラダを揺らして鍵盤を弾くピアニストたちの演奏は、どれだけ穏やかな曲であっても華やかさを感じることができる。さらに、外村が森の自然を感じることで、木々の緑や、陽光に輝く池の水面、風にそよぐすすきといった映像が重ねられ、演奏シーンは祝祭的な瞬間になっているとさえいえる。“調律”と“演奏”を立て続けに目撃することで、ピアニストたちの姿と奏でる音の感動は、調律師たちの存在があってこそのものなのだという事実がより強調されるのだ。それを単なる事実としてだけでなく、私たちは視覚と聴覚をもって“体感”することができるのである。

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