菊地成孔の映画関税撤廃 第1回

菊地成孔の『スリー・ビルボード』評:脱ハリウッドとしての劇作。という系譜の最新作 「関係国の人間が描く合衆国」というスタイルは定着するか?

アンチ・ハリウッド=アンチ「ミー・トゥー」騒ぎ

 筆者は個人的に、75年もの歴史がありながらオールタイムベストの15位を『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)、14位を『ラ・ラ・ランド』(16年)とする(因みに12位に『タイタニック』(97年)、トップ3は3位から『チャイナタウン』(74年)『アラビアのロレンス』(62年)『ゴッドファーザー』(72年))ゴールデングローブ賞の審査団体HFPA(カタカナで言うと「ハリウッド・フォレイン・プレス・アソシエーション=ハリウッド外国人記者協会)を全く信用しないが、米国アカデミー賞の前哨戦と言われるここが、本作に作品/脚本/主演女優/助演男優を与えたことを高く評価する。

 天地神明に賭けて、セクシャルマイノリティの人々に差別心も逆差別心もないと明言した上で書くが、どう見てもレズかバイでしょ。としか思えない、痛快で侠気あふれる主演女優フランシス・マクドーマンドは、主演女優賞の受賞スピーチで、「まず最初に」、「他の候補者全員にテキーラを奢るわ」と言ってから、映画の配給形態、つまり、不法なアップ&ダウンロードにより、映画館に足を運ぶ人口が減ってゆくという業界の危機についてスピーチし、完全に滑ってしまった。

 授賞式の会場が沸騰したかのような熱いアプローズを背に登壇したのに、彼女は何故スピーチで滑ったか? 「女性なのにミー・トゥーの問題に一切触れなかった」からだ。

 今回のゴールデングローブ賞は、ヒステリックなまでの「ミー・トゥー問題から女性の権利問題へ。要するに古典的が故に最強化したフェミニズム」のムード一色の女祭りで、登壇した女性は、司会者と言わず受賞者と言わず、全員がこの問題について目に涙をにじませながら熱弁し、会場は女優同士のハグの嵐、感動的な女子会、みたいな状態になってしまっていた。

 筆者は、劇中全く衣装を変えず、作業着にバンダナという「女ランボー」の格好で、一世一代の名演技を見せ、最優秀主演女優として認められた彼女の、「そんな女子会、眼中にねえ」感、それによって、滑ってしまったという事実に、自室のソファから立ち上がってアプローズを送った。それはアンチ・ハリウッド、そのSNS的なヒステリアであり、エンタメから文学まで、脚本自体が陥ってしまっている方法論の硬直。そうしたあらゆる映画の疲弊に対して、痛快なまでの反骨精神を見せたからである。

 ミー・トゥーも女性の権利も、それを発言する勇気を持つ事がシリアスで重要な問題でないわけがない。しかし、肌も露わな衣装を着て、扇情的なメイクを施して、「みんなで立ち上がろう」と手を繋ぐセレブリティを尻目に、マクドーマンド演じるミルドレッドは、娘をレイプされた上に、焼き殺されたのである。「そんな格好で夜道を歩いてたらレイプされるわよ」「じゃあされてくるよ」という娘との口喧嘩が、現実になった形で。

 何故、犯人は死体を焼いたのか? 証拠隠滅ではない、レイプして、殺害して、焼き払って、初めて欲望が達成されるのである。イラク帰還兵のほとんどが、イラクの民間人を銃殺したのちに積み上げて火炎放射器で焼く。勿論火葬ではない。

 そしてそれが、フェティシズムに昇華してしまう。遺体を焼いている間にも犯人は射精しているのである。劇中このことは、ショッキングな事実として描かれない。耳を覆いたくなるものの、しかし当然の事でしょそんなもん。といったトーンで描かれる。ミスリードとして、同じマナーでレイプを続けるイラク帰還兵が登場する。このリアリズム、そして、技巧的で緻密な脚本。

ストーリーは要約すら口を滑らすことはできない

 娘が焼き殺された事件の捜査が遅々として進まないことに苛立った主人公、ミルドレッドは、国道沿いのボロボロの立て看板に気づく、そして年間の広告料を調べ、権利を買い取り、警察の怠惰を告発する3枚の広告看板を設置する。これが本作のスタートの状態である。

 以下、ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作コメディ賞&最優秀新作戯曲賞受賞の技巧は、「こうすれば誰もを感動させられる脚本術」的な本が売れまくるような世界に、優雅なまでに挑発的な一撃を与える。

 素材/題材として扱われるものは、何一つアンリアルがない。まるで実話の映画化であるかのようなリアリズムで物語はスタートする。娘をレイプされた母親、その事にナイーブになっている息子、地方の町の、誠実でありながらマッチョな警察署長、彼の若くて美しい、頭の足りない妻、彼を父と仰ぐ、露骨なレイシストで暴力癖が治せない若い警官、無力な賢者であるベテランの警官、ちょっとゲイっぽい、気の良い看板屋の青年、隣町に戻ってきて、実際にレイプと焼き殺しの犯行を繰り返し、主人公の元に挑発にやってくるイラク帰還兵、南部の人々。奇矯なキャラクターは一人もいない、誰もが「ああ、この程度の話だろうな。こんな感じの展開だろ」と見切ってしまう。これが罠である。 

 物語は、一切の無理も、一切の謎もなく、 完璧な舞台劇のようにして、誰もの予想を大きく超える、 驚くべき流れを見せ、「おおおおおおおおお。そこに落ちるか」 という、 見事な幕切れはタランティーノがデヴューしたしたときを想起させる。登場人物の人格造形、各々の行動動機、その交錯、 ミスリードを巧みに織り交ぜてガツガツと進んで行く物語、 その驚くべき着地点。

 現在、「新しい映画」への模索は、VFXでもオタク的な感受性でも、あらゆるマイノリティーによる、告発的で愚直なシュプレヒコールでもない、劇作家の技巧が導入され、新しい物語が構築的に編まれること。総合格闘技でのボクシングテクニックの復権のようなものだ。

映画史に於いて、脚本の更新は、映像の更新と歩みを共にしてきた

 タランティーノはオタク売りと劇作家志向のバイカラーでデビューし、両方の力で時代を変えた。現在は、前者が後者を飲み込んでしまっているが、それも一つの結果だ。エンタメのみならず、あらゆる映画が、映像と題材と音響の更新に腐心し、脚本は「誰でも感動させられる脚本術」によって雁字搦めになっている状況の中、『スリー・ビルボード』は、ドキュメンタリーカメラ水準のシンプルな映像に乗せ、ただただ物語の更新のみによって(もちろんそこには、俳優たちの素晴らしい演技が伴われている)打破し、結果を出した。オーソン・ウエルズがマーキュリー劇団を率いる劇作家だったことを、特筆的に持ち出す必要はないだろう。ゴダールが改革を起こした時、脚本は破棄された。破棄もまた、脚本を更新する行為に他ならない。

 どんな繁栄も必ず硬直する。そして必ず打破と解放によって豊穣がもたらされる。歴史はリズミックにダイナミックである。常に注目すべきは、インターナショナリズムを標榜する総合芸術である映画に於いて、何人による何語の、何の技術が現在この競技に於いて最も有効か?という事であり、本作はその未来、その一端を見事に示している。過去、ペドロ・アルモドヴァルが示し、現在アカデミー外国語映画賞ノミニーの『ありがとう、トニ・エルドマン』(17年)等がトライしている流れは、本作と歩みを共にしている。

最後に、本作では音楽も脚本と歩みを共にする

 筆者は音楽家であり、映画音楽も手掛ける手前、硬直した映画の状況を音楽が変えられると信じて行動しているが、それは、ドルビー社のサラウンド技術のような音響体験的なものではなく、コンセプト、つまり脚本により近い位置での更新である事を指している。本作の音楽は『キャロル』(15年)に於いて、DJ映画/選曲映画全盛の現在、オリジナルサウンドトラックの更新を見せて米国アカデミー賞最優秀音楽賞のノミニーになった、鬼才カーター・バーウェル(因みに、前述『ジャッキー』の音楽を担当したミカ・レヴィも、同じ志と才能を有している)。本作では「実際のゴスペルではなく、ゴスペル風の楽曲をジャズの編成で演奏し、クラシックのソプラノが歌う」という、換骨奪胎的な素晴らしい新・米国音楽を提供し、本作の高いアティテチュードにきっちり合流している。映画音楽は、映像とも脚本とも融和できる博愛の乱交者だ、しかしここでは脚本とシェイクハンドしている。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『スリー・ビルボード』
全国公開中
監督・脚本・製作:マーティン・マクドナー
出演:フランシス・マクドーマンド、ウディ・ハレルソン、サム・ロックウェル、アビー・コーニッシュ、ジョン・ホークス、ピーター・ディンクレイジ、ルーカス・ヘッジズ
原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri
配給:20世紀フォックス映画
(c)2017 Twentieth Century Fox
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/threebillboards/

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