黒沢清は、劇団イキウメの人気舞台をどう映画化した? 『散歩する侵略者』に吹く“不穏な風”

 黒沢清監督の最新作『散歩する侵略者』は、2005年の初演に始まり、今年10月からの再演に期待が高まる、劇団「イキウメ」の人気舞台作品の映画化作品である。2011年に劇団2度目の再演を観劇した筆者は、以来この演目の大ファンだ。当時、上演台本の巻末に掲載されていた演出家・前川知大氏と黒沢監督の対談を目にしてからというもの、この映画化を待ち焦がれていた。日常が侵食されていく物語は、これまでの黒沢映画でも主軸となっている。舞台上のライブ感ある演劇だからこそ成し得た、センス・オブ・ワンダーな物語を、監督はいかにして黒沢映画としてスクリーン上に昇華させたのか。

 数日間ゆくえ不明だった男が、地球外からの「侵略者」に身体を乗っ取られ帰ってくる。「侵略者」に乗っ取られたのは彼だけでなく、ほかにもいる。彼らは地球に、人類固有の概念を収集しに来た。「家族」、「所有」、「自由」、果ては「愛」まで。彼らは次々に概念を奪っていく――といった物語であるが、舞台はやはり観客の想像力に頼る部分が大きい。というよりも、演者と観客の物理的なへだたりは、演者側の“見せない”、あるいは観客側の“見ることができない”状況を生み、想像するための余白として働くのだ。劇場空間を共有し合い、ある種の嘘を、演者と観客の黙約を前提に、真実として成立させるのである(例えば、「海だ!」というセリフとともに波の音が聞こえてきたら、そこにはもう海が広がっているはずなのだ)。

 「イキウメ」は、空間や時間をフワリと別次元へと結びつけてしまう。舞台装置や俳優の見た目そのままに場面を転換させ、ときには複数のドラマを同時展開する、シームレスな演出が持ち味なのだ。音楽をほとんど必要としないほど会話劇はリズミカルに進行し、ドラマが綴られていく。誰かのセリフをきっかけに、颯と変化する目の前の世界は、見た目はほとんどそのままのはずなのに、何だかおかしい。この滑らかな場面転換は、日常と隣り合わせの異世界が侵食し、気がつくと顔をのぞかせる作風の「イキウメ」ならではもの。むしろ説得力があり、観客は自然とこの不気味な世界に身を委ねてしまうのだ。

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