菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 特別編
菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね
しかし、この曲とこの画像がリードするのは
「ミュージカル映画の俳優志望の人々」ではないだろうか?
この辺りから、チャゼルマナーが、ゆっくりゆっくりと始動する。開始時に一発ヤラれてフラフラになっている観客の、機能停止した判断力を尻目に。
主人公は、「もう死んでいるも同然なジャズを蘇生させようとするジャズピアニスト」と「女優を目指す女性」の2人だ。
この2人のパンチ力も凄まじく、『セッション』の主人公2人のパンチ力アンサンブルを遥かに超える力で世界中の恋に飢えた(以下同文)の足元をクラックラにする。ゴズリング&ストーンの魅力は、3~50年代のMGMミュージカル→6~70年代のフレンチ・ミュージカルという「ミュージカル映画史」のツインピークス(まとめ乱暴だけど、チャゼルのまとめもこんな程度である)以降に散発された「ポストモダン・ミュージカル」のどの主人公カップルより魅力的だと言えるだろう。「主人公2人の、ものすごい努力による魅力の爆発。におんぶ&抱っこ」も『セッション』との共通点である。
しかしである。この設定、良いのか? というか、ギリギリの線を狙っているのか? あるいは雑なのか全くわからない。
「ミュージカル映画」の主人公が「ミュージカル映画の主役を目指す俳優志望」であるのは構造矛盾だよね。だから、間違ってはいないんだけどさ
アステアなんてとんでもない役までやっている(『気儘時代』なんて、精神分析医である)。ショービズと関係無い人が突然歌い踊るのが戦前合衆国流、軍人や商売人など、リアルな町の人々が歌い踊るのが、仏流(というか、ジャック・ドゥミ・マナー)であるが、そもそも「ミュージカル」と「モダンジャズ」というのはファンクとヒップホップみたいなもので、似たような全然違うもののような、微妙な関係だ。しかも、ジャズによるレコンキスタを渇望するライアン・ゴズリングの夢は、「昔は由緒あるジャズクラブだったが、ジャズが廃れてからインチキな観光ラテン・クラブになっている店を、ジャズクラブとして奪還すること」であり、ちんまり自分の趣味の店がやりたいだけなのか、ジャズカルチャーを本気で復権させたい革命家志望なのか、ものすごく微妙なまま話が進むので、主人公の葛藤が、葛藤として機能していない。
この「座りの悪さ」「すっきりしない感じ」は、ジャズとミュージカルの微妙な関係なんてどうだって良いね、胸さえキュンキュンすれば。という善良な人々=90%の観客には可視化さえされない。知り合ってすぐにエマ・ストーンはライアン・ゴズリングに言う「私はジャズなんて嫌いだから」。大問題だ。どうするゴズリング。彼はジャズクラブに彼女を連れて行き、ジャズのライブを見せながら解説する。「ジャズは耳だけで聞くものじゃない。目で楽しむんだ(懐石料理かよ! 笑)。」
このシーンで、どうやら(としか言いようがないのだが)エマ・ストーンは一発でジャズ開眼するのだが、移入できた人いますか? なんだろうかこの、チャゼル流の、ジャズに対する不感症的な、しかし奇妙な情熱は。
そもそも、ライアン・ゴズリング嘉尚の「ピアノ本人です」で演奏される曲に、モダンジャズ(風)は一切ない。一番近いのはシャンソンかセミクラシックだが、要するに「ミュージカル・ナンバー風」である。ミュージカル風の華麗で大仰なピアニズムはモダンジャズから最も遠い、しかし、モダンジャズは演奏素材をミュージカルナンバーに求め、換骨奪胎してきた。そして、彼の部屋で最初に写るジャズメンのポートレイトはビル・エヴァンスとコルトレーンで、セリフには「モンクやハンク・ジョーンズを意識したって」とあり、しつこいようだが、そのピアノタッチはポール・モーリアやリベラーチェに近い。あんな、クラシックのコンチェルトみたいな、激しくドラマチックなジャズピアノなんてないし、あんなショパンみたいな端正で静謐なジャズピアノなんてない。
つまり、イライラするのはジャズマニアだけだ。これも『セッション』と全く同じである。「チャーリー・パーカーのニックネームはバード!」ってよ(笑)
このことが最も端的に顕在化するのは、「ジョン・レジェンドは悪玉なのか善玉なのか微妙なのか、全くわからないところ」である
昔はジャズをやっていたが、今は金儲けに走り、愚かしい売れ線ファンクをやっている堕落した男なのか、主人公の心に、ジャズの現代性という難問を問いかける、気の良い賢者なのか、まあ、ダメはダメでも、店の資金となる金を稼がせてくれた恩人、なのか、そのどれでもないようにしか見えない。
エマ・ストーンも、映画俳優志望なのか、舞台女優志望なのか、結構これがミュージカルがやりたいのか(肝心な所で歌う→アンリアルゾーンであるミュージカルシーンではなく、リアルシーンであるオーディションや、主人公の部屋の中で)、判然としない。最終的にはハリウッドスターになるが、彼女のルーツにあるのは、おばさんが女優をやっていたことなのである。一度はネヴァダの故郷まで帰った彼女の才能を発見するのはフランスであり、オーディションでは、おばさんのパリでの経験に基づいたシャンソン風を歌う。
というかそもそも、エマ・ストーンは「芝居の才能はあるが、現代ハリウッドのオーディション・システムは金に汚れており、不遇なまま」なのか「本当に、芝居の力はイマイチ」なのかが、画でも脚本でもすっきりしない。「最後に見出されてスターになるから、だから才能はあったんだよ」と言った感じで、リアルタイムでは全く伝わってこないのである。
あー、何から何までひとつもすっきりしねえ!!(笑)
と、これがチャゼル流だ。画でも台詞でも芝居でも物語でも、ストーリーが転がせない。かましだけは強烈だが、イマイチ考証が雑な、最初に喰らわされるワンパンチでうっとりしてしまい、後はボケーっと見ていると、エンディングに乱暴などんでん返しがあり、結果として「すごいもん見た」と思わせるのである。ハッタリの天才。というより、ある種の現代的な解離感覚が体質化しており、現代人にフィットするのだろう。葛藤がなく、ということは解決もなく、ただ刺激があるだけである。