精霊のような老婆に導かれし公営住宅の暮らしーー20代女性監督が撮った『桜の樹の下』の魅力
田中圭監督はこのご老人たち一人一人にカメラを向けて、会話を紡いでいく。それはどこか孫とおじいちゃんおばあちゃんといった関係すら彷彿させるし、また4人の表情も「語る」ことによってどこか晴れ晴れしたものとなっていくのがわかる。もしかすると、取るに足らないと思い込んでいた孤独な人生に他者の視点が注ぐことで「開かれていく」ものが、ここにはあるのかもしれない。
中には部屋をゴミ屋敷へと変貌させてしまっている老婆もいるが、この映画が決してワイドショーの突撃取材のように彼女をセンセーショナルに糾弾することがないのも幸いだ。むしろカメラがその表情を克明に捉えることで、内面に何を抱えているのか、どんな情景が広がっているのかが伝わってくる。そして膨大なゴミの山から発掘される昭和のレコードの数々。それをプレイヤーで再生するとゴミ屋敷がノスタルジックな響きで包まれ、当人もうっとりとした表情を浮かべる。映画にとってもまさに至福のひととき。
そして気がつくと、また冒頭のあの精霊のごときおばあちゃんが、ゴミ屋敷の老婆に対して「しっかりしなさい!」と励まし、一緒になって片付け作業を始めている。そんな彼女に対して「もう関わらないでくれ」「絶交だ」と宣言しながらも、またいつしか付かず離れずの関係性で寄り添いあっていく老婆。二人の友情は見ていてグッと沁み入るものがあった。
また、かつて演劇活動に従事していた初老の男性が、今の心境を戯曲にしたためていく姿も興味深い。ここで彼の口からこぼれる言葉が「巣箱」といったもの。それは公営団地を象徴的に言い表したものだ。多くの紆余曲折を経た人生を抱えて辿り着いたこの巣箱のような部屋。そこから無数の鳥たちが顔を出すようにして日々をやり過ごしていくというのだ。遠くから望む公営団地の風景は確かに無数の巣箱の集合体に見える。しかしそこの一部屋一部屋に、一度会ったら忘れられない人たちの人生が濃密に詰まっていることを、『桜の樹の下』は語り口豊かに伝えてくれる。
いつしか桜の精霊のごとき老婆が可愛がっていた愛鳥も死ぬ。そして笑顔の印象的だった彼女自身もこの世を去る。この映画に死は訪れても、新たな生が誕生することはない。ただその代わりに、近くにそびえる桜の樹が、今年もまた満開の花を咲かせる。この桜はこういった人の「生き死に」を、いったいどれほど数多く目撃してきたことだろう。
巡り来る季節の中に4人の人生を織り交ぜることで、映画全体に気持ちの良い空気が流れていた。彼らがいるからこそ自分も頑張ろうと、何かこちらまでも大いなる元気をもらえる気がした。私はこの先、何年も、何十年も、桜が咲くたびにあの老婆の笑顔を思い出すのだろう。きっとそれこそが本作の持つ、ささやかだけれど尊い力だ。
■牛津厚信
映画ライター。明治大学政治経済学部を卒業後、某映画放送専門局の勤務を経てフリーランスに転身。現在、「映画.com」、「EYESCREAM」、「パーフェクトムービーガイド」など、さまざまな媒体で映画レビュー執筆やインタビュー記事を手掛ける。また、劇場用パンフレットへの寄稿も行っている。Twitter
■公開情報
『桜の樹の下』
ポレポレ東中野にて公開中、ほか全国順次公開
監督・編集:田中圭
配給:JyaJya Films
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公式サイト:http://www.sakuranokinoshita.com/