『インサイド・ヘッド』のインサイド "狂気の情報量"を投入する米国アニメに迫る

宮﨑駿を魅了した、ピクサー監督の奇想と愛情

 先日、宮﨑駿が、あるアニメーション映画の試写を鑑賞直後、立ち上がって拍手したという。その作品は細田守監督の『バケモノの子』......ではなく、ピクサー・アニメーション・スタジオ新作『インサイド・ヘッド』であった。『バケモノの子』で、バケモノの精神を少年が受け継ぐ物語が、ややもすると「アニメ界のバケモノ宮﨑駿の魂を受け継ぐのは自分である」という宣言に見えるほど、細田監督が自作で宮崎作品へのラブコールを繰り返してきたのと同様、『インサイド・ヘッド』のピート・ドクター監督も、『カールじいさんの空飛ぶ家』の空中戦などにおいて、同様に宮崎作品からの影響を熱く表現してみせている。巷では「ポスト宮崎待望論」がささやかれるが、近年の見事なピクサー作品を観ると、日本のアニメーション監督に限定して考える必要はないかもしれないと感じる。

 『インサイド・ヘッド』で目を引くのは、頭の中をひとつの世界として戯画化する挑戦だ。ヨロコビ、イカリ、ムカムカなど5つの感情が、それぞれ擬人化したキャラクターとして現れ、それらが脳の持ち主である人間の行動をコントロールし、ピンボールのように流れ込んでくる個々の記憶を整理し、巨大な図書館の棚のような脳内のひだに格納していく。映画は、少女ライリーが直面する現実の物語と、脳内の物語が、それぞれに干渉し合いながら進行し、その両面が描かれる。ピクサー作品のなかで最も個性的なコンセプトの作品といえるだろう。

 ピクサー内部でも「天才」と名高いブラッド・バード監督が実写作品に移行するなか、主要スタッフ、監督としてピクサーでアニメーション表現を追及し続けてきたピート・ドクターは、ジョン・ラセターやバードと比較すると、テーマや演出においては、個性がやや弱い印象がある。だが、彼の持ち味は、モンスターの会社や、風船で空を飛ぶ家など、物語を生み出す上での突飛な発想力だといえる。ピートは、瞑想室のような薄暗いプライヴェート・オフィスで独創的な案をひねり出す。

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 物語のなかで、都会に引っ越し、生まれ住んだ家や友達と離れた悲しみを無理に抑圧しようとしたライリーは、転校初日、教室のみんなに挨拶をしながら思わず涙を溢れさせてしまう。それは脳内では、悲しみの感情を司るカナシミの、無意識の行動としても描かれる。ライリーを不幸にするだけの存在だと思われていたカナシミだが、ヨロコビとともに脳内を冒険するなかで、他人の傷ついた心に寄り添い共感する特別な能力を持っているということが分かってくる。ライリーは、脳内の感情たちとともに、世界の実像に触れ成長していく。

 ピート・ドクターは、監督作『モンスターズ・インク』の少女を、自身の小さな娘をモデルに、『インサイド・ヘッド』でも思春期に入った娘の心理からインスピレーションを得ている。それが少女の心理や、その親の感情表現に、より深い実感を与えていることは言うまでもない。完成まで5年と、ピクサー作品としても例外的に長期製作になったことから分かるように、この難物の企画を、それでも完成し得たのは、奇想と実直を併せ持つピート・ドクターならではといえる。

 脳の構造と精神分析的な知識を散りばめた物語は、小さな子供の観客には難し過ぎるかもしれない。けれども、現実世界がそうであるように、子供たちは作品世界の全てを理解する必要はない。脳内世界の住人の謎や、精神の奥底への畏怖や美しさは、子供たちの心の奥に、咀嚼できない体験として、そのままゴツンと残り続けるだろう。そして、脳のしわのなかに潜んでいた、あのイマジナリー・フレンドのように、いつか再会できる日が来るかもしれない。