映画『八つ墓村』、なぜ賛否両論に? ミステリ評論家・千街晶之の辛口レビュー
9月18日に公開された清水崇監督の映画『八つ墓村』については、監督は賛否両論覚
悟でこの映画を作っているということは間違いないと考える。ならばその覚悟に応えて
、正直な感想を述べるのが筋だろう。「原作の映像化ではなく、過去の映像化の劣化コ
ピー」というのが、この映画から受けた印象である。ただしそれは、原作のミステリと
しての要素を尊重する立場からの感想だ。別の立場からすると、本作はそれなりに楽し
める。今回の映画は、そんなアンビヴァレンスを原作ファンの観客に強いる作品だ。
ここから先、犯人が誰かなどのネタばらしはしない予定だが、展開にある程度踏み込むので、映画を未見、あるいは原作を未読の方はご注意いただきたい。
原作は言うまでもなく、横溝正史の小説『八つ墓村』(1951年)。一時期は半ば忘れられた作家であった横溝が、1960年代末〜70年代に再注目されるきっかけとなった作品である。影丸譲也(後の影丸穣也)による漫画化は横溝ブームを巻き起こしたし、角川文庫には最初に収録された。映像化の回数は映画化4回、ドラマ化7回。これは、映画化3回、ドラマ化8回の『犬神家の一族』と並ぶ。横溝作品中、最も高い知名度を誇る傑作だ。
名探偵・金田一耕助が登場するシリーズだが、寺田辰弥という青年の一人称で綴られており、金田一が登場するタイミングはやや遅い。戦後の神戸で、天涯孤独の身で暮らしていた辰弥のもとに、岡山県の八つ墓村にある旧家・田治見家の財産相続の話が舞い込んできた。辰弥を迎えに村から来たのは亡母の父・井川丑松だが、対面早々、毒物によって死亡する。そして、村に出向いた辰弥を待っていたのは、彼の相続を望む田治見家の人々と、複雑な思惑を抱えた村人たち、そして矢継ぎ早に起こる殺人事件だった……。
戦国時代の落武者殺しの伝承、26年前に田治見家の当主・要蔵が起こした大量殺人、八つ墓明神が怒っていると叫ぶ迷信深い尼……と、怪奇的な因縁の彩りには事欠かない物語だが、実際にはアガサ・クリスティーをはじめとする海外の本格ミステリのエッセンスを日本的に再解釈した本格ミステリである。特に、祟りを思わせる無軌道な連続殺人の背後に隠された動機の意外性には驚かされるだろう。
ただ、登場人物が多く、筋も複雑な作品なので、原作通りの映像化は困難を極める。「原作の被害者のうち誰を残すか」「動機をそのままにするか、変更するか」「辰弥の出生の秘密、およびそれに関わるある人物をどう描くか」「財宝の扱いをどうするか」「ヒロイン格の森美也子・田治見春代・里村典子のうち誰を省略するか」等々、映像化に際してどこを削り、どこを残すかで、全く違う印象になるのが『八つ墓村』なのだ。
既に述べた通り『八つ墓村』は本格ミステリだが、一方で怪奇的彩りに満ちた伝奇ロマンの面も持つ。『本陣殺人事件』『獄門島』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』といった横溝の他の代表作と比較すれば、伝奇要素の濃厚さは明らかだ。そのため、歴代の映像化は、本格ミステリの要素と、映像映えする怪奇・伝奇の要素という両端のあいだを揺れ動いてきた。
最も本格ミステリであることを重視したのは2004年の単発ドラマ(金田一は稲垣吾郎)と2019年の単発ドラマ(金田一は吉岡秀隆)だろう(ただし前者は結末に怪奇的要素も入れている)。1991年の単発ドラマ(金田一は古谷一行)もこちら寄りだが、動機は異なる。1996年の市川崑監督の映画(金田一は豊川悦司)は省略が多いものの、動機は原作と変えていない。
一方、1991年の単発ドラマと同じ古谷一行が金田一を演じた例でも、1978年の連続ドラマは、前年公開の映画に釣られたのか、落武者殺しや32人殺しの凄惨さ、『八つ墓村』映像化史上最も後味の悪い後日譚など、怪奇・伝奇のほうに寄せた演出が印象に残る。
歴代の『八つ墓村』映像化のうち、今回の映画に最も近いのは1977年の、野村芳太郎監督による映画(金田一は渥美清)だ。それは当然で、どちらも配給は松竹だし、今回の2026年版は明らかに1977年版へのオマージュとして作られている。尼子義孝や矢島刑事といった役名も1977年版を踏襲している(それだけに、クレジットに1977年版の脚本家・橋本忍への言及がないのは如何なものか)。
1977年版は、戦国時代の落武者殺しや要蔵による32人殺しが残酷でおどろおどろしい見せ場だったし、犯人が正体を現してから結末に至る流れは理屈で割り切れないものであり、そこでミステリ映画からホラー映画へと一変する。それでも、犯人自身の動機は世俗的なものであり、その点ではミステリとしても着地していた。ところが今回は謎解きの要素を排除しホラーの側に振り切るという、1977年版ですら越えなかった一線を越えた展開となっている。私が本作を横溝作品の映像化ではなく、1977年版の劣化コピーだと考える所以である。
金田一耕助役の尾上松也は、好奇心旺盛で、図々しいのに憎めない金田一像を作り上げていて悪くない印象だが、ホラー色が濃い映画なので、推理を披露するという探偵としての見せ場がなくて残念だった。もっとミステリ寄りの作品でまた金田一を演じてほしいと思う。
今回は金田一耕助と井川辰弥のバディものとなっている(原作では辰弥は母の再婚相手の寺田姓であり、井川は母の旧姓。2004年の単発ドラマや2019年の単発ドラマのように、近年は井川辰弥という役名で登場する傾向にある)。奥智哉の辰弥は、時代背景を現代に移したことに伴い、素直で受動的な若者になった印象だが、周囲がアクの強い人物ばかりなのでこの描き方は正解だろう(なお、奥智哉は綾辻行人原作のネット配信ドラマ『十角館の殺人』『時計館の殺人』の江南孝明役でミステリファンにお馴染みだが、今回の『八つ墓村』には『十角館の殺人』で印象的な役を演じていた小林大斗も出ているので、『十角館の殺人』ファンにとってはこの2人の顔合わせも見どころだ)。森美也子役の堀田真由は、連続ドラマ『一次元の挿し木』など、このところミステリアスな役が続いており、原作とややイメージが異なる今回の美也子には合っている印象だ。
1977年の映画が巨費を投じた超大作としての風格を具えているのに対し、今回はスケール感は乏しく、長さも117分とコンパクトだ。上映時間に収めるためにカットされた場面があったのかは不明だが、脚本はやや説明不足気味で、特に辰弥の母・鶴子に関してはよくわからないことが多い。
また、連続殺人に原作にはない見立ての要素を導入したのは1978年の連続ドラマと共通しており、面が1つずつ消えるたびに人が死ぬあたりはクリスティーの『そして誰もいなくなった』を想起させるものの、見立て殺人になっているのは途中までで、その後は誰がどういう方法で何人殺されようがどうでもいい展開となっており、何のための見立てだったのかという疑問が残る(残りの人間も見立て通りに殺すという当初の予定が、村人の思わぬ暴走のせいで崩壊したという見方も可能だが)。今までも原作と被害者数が異なることは多かったが、8人という人数にそれなりの辻褄合わせが行われていたのに対し、今回は被害者数の意味づけが後半は放棄された。そういった点も含め、本作はミステリとしては0点と評さざるを得ない。
では、ミステリではなくホラーとして本作を観た場合はどうか。監督の清水崇は、2020年の『犬鳴村』を皮切りに、『樹海村』(2021年)、『牛首村』(2022年)と、「恐怖の村シリーズ」と呼ばれる一連のホラー映画をヒットさせている。これらは、実際にある心霊スポットを舞台に、有名な都市伝説を絡めたものだ。今回の『八つ墓村』は小説が原作だからこのシリーズには含まれないものの、恐ろしい伝説がある排他的な村の描写などは同系列と言っていい。双生児の田治見小梅・小竹を二役で演じた高島礼子、戦国時代の田治見家当主・庄左衛門を演じた髙嶋政伸といった出演者も『犬鳴村』と共通する。本作では明らかに中盤以降のほうが演出に精彩があり、監督の興味がどこまでもホラーの方向を向いていることが証明された。
要蔵による村人大量殺戮は、桜吹雪の中をこちらに駆けてくるショットなどで1977年版の山崎努へのオマージュを捧げつつ、滝藤賢一の演技が迫力と狂気に満ちており、歴代要蔵俳優の中でもかなり上位に来る(平成の世にあんな派手な事件を起こしたらすぐに警察が駆けつけるのではないかという疑問にも、納得がいくフォローが施されている)。ただ、要蔵もさることながら個人的に感心したのは、滝藤賢一の二役による久弥の演技だった。今回は原作や過去の映像化と異なり、久弥の出番が多い脚色になっている。
1977年の映画以降は、1995年の単発ドラマ(金田一は片岡鶴太郎)を除き、要蔵と久弥を同じ俳優が演じてきた。これはこの父子の顔が似ているという原作の記述に準拠したものだし、久弥が辰弥にかけた言葉とともに、辰弥に関するある秘密の伏線となっている。しかし今回は、そのあたりの設定に変更があるためか、久弥の言葉は「わしに似てええ男じゃ」という原作と反対のものに変えられた。それはともかく、父の要蔵や先祖代々のように祟りに呑み込まれてしまうのではないかと怯える久弥の哀しみを滝藤賢一は見事に演じきっていた。
もう一つ、今回の映画で出色だったのはロケ地の使い方だ。1977年版では、多治見家(原作の田治見家)の外観として岡山県高梁市の広兼邸が使われていた。江戸時代に銅山とベンガラで巨万の財を築いた富豪の邸宅であり、石垣や楼門がある構え、門に至る長いスロープなどが、多治見家の格式と富を一目見ただけで観客に理解させた。
この映画でのインパクトが強烈だったため、その後も広兼邸は『八つ墓村』をはじめとする横溝作品の映像化で、旧家のロケ地として多用されてきた。今回の『八つ墓村』も広兼邸が田治見家として使われているが、外観にとどまらず楼門の内部や母屋、庭も小型カメラやドローンなどを駆使して撮影されており、今までの映像化では最も広兼邸の構造を上手く活かした印象だ。1977年版から約半世紀、撮影技術の進歩をつくづく感じる。
そしてこの不変の舞台装置たる広兼邸が象徴するものが、呪われた血筋としての田治見家だ。今回、時代背景が現代(令和)なので、登場人物の名前や設定は一部変更されている。例えば濃茶の尼こと妙蓮尼は、今回はフリフリさんと呼ばれる女性(本名は豊川恵美というらしい)に変更された。また、原作で辰弥を最も敵視する博労の片岡吉蔵の役割は、今回は青年会メンバーの工藤修平が担っている。工藤修平という名前は原作にはないが、1977年の映画のオリジナルキャラクターである工藤校長と、原作の新居修平医師の名を合体させたものか。
それに対し、田治見家およびその親戚筋の人物の名前はすべて原作通りである。現代が舞台なのに、要蔵や小梅・小竹といった古風な名前もそのままなのだ。これは、田治見家が400年以上も因習と祟りに呪縛されていて、その意味では時の流れが止まったような一族であることを示しているのだろう(不思議なことに、本作では落武者は村人総出で殺されたにもかかわらず、その祟りは田治見家の根絶やしのみを目的としているかのようだ。要蔵による大量殺人の被害などは間接的な結果にすぎない)。それに対し、工藤修平らは自分たちも落武者殺しの村人の末裔であるにもかかわらず、田治見家にのみ怒りの矛先を向ける。このあたりは煽動される集団心理の恐ろしさを描きたかったようだが、時代設定を現代に移し替える作業がデリケートさを欠くため、妙に古風なちぐはぐさが残ってしまった。
最後に、エンドロール後に用意されたオチについて。ホラー映画で何千回も見たような凡庸なオチのようでいて、実は作中で言及されなかったあることへの解答となっているし、劇中での鶴子の描かれ方を思い返すなら、クライマックスでの霊的闘争がまだ続くことの暗示とも取れる。本作をホラー映画として観る場合、その点は筋を通したと評したい。
こうして見ると、ホラー映画としては一定の見どころを持つ作品であることは認めざるを得ない。今まで観た映画で、私が本作と比較的近いと感じたのは2023年のアニメ映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』だ。あの映画は、水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪が存在する世界に横溝正史的な連続殺人を無理なく融け込ませていた。といっても、同じようなことをわざわざ本格ミステリである横溝正史原作でやる必要はないわけで、「原作の映像化ではなく、過去の映像化の劣化コピー」という全体的な感想自体は変わらないのだが。