【連載】柳澤田実 ポップカルチャーと「聖なる価値」 第七回:頽廃(デカダンス)の王:ザ・ウィークエンド
(After Hours Til Dawnツアー、2025年6月25日)写真:REX/アフロ
1.ザ・ウィークエンドに共感する女性たち
2025年8月21日、エイベル・テスファイが自らの分身である “ザ・ウィークエンド”を葬るためのAfter Hours til Dawnツアーのアトランタ公演に私はいた。その日は夕方から激しい雨が降り、残念ながらショーの最後を締めくくる豪華な花火を見ることはできなかったのだけれど、アトランタ出身のPlayboi Carti に加えてFutureまでゲストで登場したメルセデス・ベンツ・スタジアムの熱気は最高潮だった。
※動画はこのツアーの前にサンパウロで行われたストリーミングライブイベント。
ファンの構成はほぼ男女半々で、カップルで来ている人たちも多かった。女性のほうがエイベルに熱心なカップルが多く、例えば男性はパートナーの女性に抱きついたり携帯電話ばかり気にしているのに、女性のほうは男性を一顧だにせずエイベルを凝視しているという光景が多く見られ、微笑ましかった。
また女性たちがとりわけ大きな歓声を上げ、シンガロングしていた曲が「One of The Girls」だったのも印象的だった。この曲は、リリー=ローズ・デップ演じるポップ・アイドルとエイベル演じる詐欺師のドラマ「THE IDOL/ジ・アイドル」のサウンドトラックである。若い女性を年長の男性がグルーミングする物語の設定や過剰に性的な場面に対しては批判が多く、制作のHBOにシーズン1で打ち切られてしまったドラマだ。けれども、ドラマ作品に対する世間一般的な評価とは裏腹に、サントラの評価は高く、特にマイク・ディーンが奏でる気だるいイントロで始まる「One of The Girls」はTikTokで流行した。コンサートでの大歓声が示していたのは、この曲が、ザ・ウィークエンドの女性ファンたちが最も愛する曲の一つになっているということだ。
ザ・ウィークエンドの曲は「One of The Girls」に限らず、ドラッグとセックス、共依存や裏切りを伴う、いわゆる「有害な(toxic)」男女関係の描写に溢れている。2016年、つまりザ・ウィークエンドが「Starboy」をリリースし、いよいよポップスターとしての地位を確立した年に、Apple Musicのインタビューでゼイン・ロウは、ザ・ウィークエンドの歌詞を「生々しい(raw)」と表現した上で、彼の音楽が圧倒的に女性たちから支持されていることを不思議に思うと語った。エイベルはそれに対して「女性は生々しいものが好きだから」と一言応答したが、実際、しばしばミソジニー的だと批判される彼の音楽を女性リスナーが愛してやまない理由を言葉にするのは、曲を作っている本人にとっても簡単ではないのだろう。
同じく2016年に『VICE』に掲載された女性ライター、エマ・ガーランドによる記事のタイトルは「なぜ皆、女性がザ・ウィークエンドを好きなのは、彼と寝たいからだと思うのか?」だった。この記事でザ・ウィークエンドのファンである彼女が、逡巡しつつ言葉にしようとしたのは、女性たちはエイベルを恋愛対象として見ているのではなく、端的に彼に共感しているから彼の音楽を聴いているということだった。
「私がザ・ウィークエンドに惹かれたのは、彼が、当時私が下していた極めて愚かな選択を駆り立てたのと同じ心理的空間(the psychological space)からアートを生み出していた数少ないアーティストの一人だったからだ。」
ガーランド自身は一時期、ザ・ウィークエンドが描き出す世界そのままの生活、つまりパーティーでドラッグをやり、一夜限りの関係を持っては、その行動を恥じ、後悔しながらも繰り返すという生活を送っていたそうだ。しかし、これと全く同じような状況を経験していなくとも、彼の音楽に共感するには、引用にある「同じ心理的空間」を共有していれば十分だと思う。つまり愚かなことに身を委ねては、それを恥じ、わかっていてもまた堕ちていくサイクルから抜け出せない、そうした「心理的空間」のことだ。
2.心理的空間にいる“秘密”の証人
「心理的空間」、特に「空間」は、ザ・ウィークエンドの音楽を語るのに適した言葉だ。没入的なエイベルの音楽が、リスナーを即座に彼独自の「心理的空間」に誘いこむことに異論のある者はいないだろう(没入志向の彼がVR技術をMVなどに用いるのも理解できる)。ザ・ウィークエンドの音楽から立ち上がる「心理的空間」は頽廃している。それは、ろくでもない淫靡な願望、行為、それに対する恥や後悔の全てが、そのまま存在している場所である。同時に、その空間には独特の安らぎがある。多くのいわゆる“頽廃的”なロック(例えばグランジ)やポップス(例えばエモやボカロ)はしばしば自傷的で切迫感が強く、聴くことでより一層不安を掻き立てられるものも多いが、彼の音楽は聴くものを追い詰めない独特の“広さ”を持ち、鎮静効果を与えてくれさえする。
この“広さ”を作り出しているのは、エイベルの第三者的な立ち位置だ。歌謡曲を思わせる(実際サンプリングしていることもあるわけだが)ポップなメロディや人工的なシンセサイザーの音色、クールな歌声、そしてどこか自分も他人も突き放しているような歌詞に表出する彼の距離感が、独特な余白を生み出す。エイベルは、曲のなかで常に一人称であるにもかかわらず、同時に彼の音楽が作り出す「空間」を司る超越的な視点にもなっている。その意味で彼は確かに、先述のガーランドがタイトルにしたように、女性のリスナーたちが性的な関係を持つ二人称的な対象として存在しているわけではない。「俺はお前のこういう側面を知る唯一の人間(I'm the only one who knows this side of you)」(「Double Fantasy」)と歌う彼は、彼女たちの“秘密”を目撃し、それを認めてくれる、いわば第三者的な“証人”としても、その「心理的空間」にいるのだ。
思えば彼が手がけた映像作品、つまりMVであれ、ドラマ『THE IDOL』であれ、アルバム『Hurry Up Tomorrow』と合わせて制作された同名の映画であれ、その中心にあったのは常に、物理的な空間に象徴される頽廃的な「心理的空間」だったと思う。MVに登用する薄暗い部屋、夜の街、人気のない道、『THE IDOL』の豪華だが、どこか陰鬱なジョスリンの邸宅やクラブ、『Hurry Up Tomorrow』のエイベルやヒロインであるアニマの住む部屋やホテルの一室は一様に「心理的空間」を象徴しており、それらはザ・ウィークエンドの音楽を聴いてきた者にとっては非常に既視感があるものだ。この空間でエイベルは、苦悩する一人称的な当事者を演じることもあれば、『THE IDOL』のテドロスのように、堕落した自分や女性たちを観察する「心理的空間」の主になることもある。
この無意識と地続きになっているような頽廃的な「心理的空間」こそがザ・ウィークエンドの作り出す世界のリアリティであるから、この「空間」を共有していない批評家たちが『THE IDOL』や映画『Hurry Up Tomorrow』を酷評したのは当然だった。作品単体で見るとプロットの説明は不十分で、展開は唐突だし、人物造形も浅い。リリー=ローズ・デップやジェナ・オルテガ、バリー・コーガンといった今をときめく才能を集め、こんなに軽薄な作品を作るのは「自己耽溺」だと批評家たちは揶揄した。しかし、これらの作品のチープさは、ザ・ウィークエンドが描き続けて来た「心理的空間」を共有する者にとって実はマイナス要素ではない。生産性のないことに自らを蕩尽することの滑稽さと美しさこそが頽廃の本質であり、彼の音楽にはこうした馬鹿らしさと切なさ、悲しみが常に同居しているからだ。『ナインハーフ』の薄っぺらい焼き直しのようなセックスシーンを批判されたエイベルは、あのシーンを見ていたたまれないという反応は当然で、実際テドロスは「クソ野郎なんだよ」と反論した。
2025年8月21日にメルセデス・ベンツ・スタジアムを埋め尽くした約8万人のファンは「愛をくれよ、ベイビー、俺は自分の恥辱を捧げるよ ドラッグをくれよ、ベイビー、俺は自分の痛みを捧げるよ(Bring your love, baby, I could bring my shame Bring the drugs, baby, I could bring my pain)」(「Wicked Games」)と、エイベルと声を合わせて歌っていた。皆笑顔で。それは、まるで彼と “秘密”を分かち合う者たちが集う儀式のようだった。
3.中間状態/煉獄
エイベルが確信犯的に、頽廃的な「心理的空間」を描き続けてきた背景に、彼のキリスト教信仰があるということは、21世紀という世俗化が進んだ時代に、キリスト教が持つ意味を考える上でも見過ごせない事実だ。彼はエチオピア正教徒の移民の子供であり、祖母に連れられてカナダ、トロントのエチオピア正教会、聖メアリー大聖堂に通いながら育った(彼は2016年にこの母教会に5万ドルの寄付をしている)。彼は自分の宗教的背景を直接参照することも多く、例えばしばしばライブで着る華やかな刺繍のローブはエチオピア正教会の司祭の衣装を模したもので、ツアーのセットなどに登場する正方形の塔はエチオピアのラリベラの岩の聖堂に由来する。また罪(sin)、信仰(faith)、祈り(pray)、慈悲(mercy)、堕天使(fallen angel)といったキリスト教由来の言葉はリリックに頻繁に登場するし、「Starboy」のジャケットやMVのようにあからさまに十字架が登場することもあった。このヒット曲の中のリリック「何百回ものダッシュ(車の加速)が自分を神に近づける 俺たちは愛のためには祈らない 祈るのは車のためだけ(A hundred on the dash get me close to God We don't pray for love, we just pray for cars)」はキリスト教の用語を用いた最高にクールなボースティング(誇示)である。
こうした意匠レベルの影響以上に、エイベルがザ・ウィークエンドのクリエイションの核として据えた頽廃的な「心理的空間」は、キリスト教の本質的な部分に触れている。このアイディアを彼が明確に示したのは直近の三部作の二作目『Dawn FM』(2022年)においてだった。前作『After Hours』(2020年)で、セレブリティであるがゆえの虚栄や自己喪失、希死念慮を主題としたエイベルは、コロナ禍の真っ只中に『Dawn FM』を制作し、そのコンセプトを自ら以下のように語っていた。
「このアルバムを、まるでリスナーが死んでしまったかのような状態だと想像してほしい。(中略)そして、彼らは煉獄のような状態に閉じ込められている。僕はいつも、それはまるでトンネルの出口の光にたどり着くのを待ちながら渋滞に巻き込まれているようなものだと想像していた。渋滞に巻き込まれている間、車内ではラジオ番組が流れていて、ラジオのホストが光へと導き、向こう側へ渡る手助けをしてくれるんだ。」
ここでエイベルが言及している「煉獄(purgatory)」とは、カトリックの教義で、死んだ人間の魂の罪が天国に行く前に浄化される中間的な空間・状態を意味する。興味深いことにエチオピア正教でもこの「煉獄」に類似した「中間的な場」に関する詳細な教義があり、カトリック以上にこの死後の待機場所が重視されていて、教会でも熱心な祈祷が行われるそうだ。
エイベルがザ・ウィークエンドというペルソナに託して描き続けてきた「心理的空間」をこの「中間的な場/煉獄」と重ね合わせるならば、彼が最後の三部作で、自らの魂が煉獄から救い出されるドラマを演出し、この旅を終結させようとしていることが一層よく理解できる。現在行われているツアーの名「After Hours Til Dawn」も、同様のコンセプトで付けられるのは明らかだろう。と同時にこの救済のプロセスが、単純な弁証法、つまり「救われておしまい」の物語になっていない点も重要だ。最後の三部作の三作目『Hurry Up Tomorrow』(2025年)は、確かに救済のドラマとして構成されてはいて、罪の告白、悔悛、慈悲の希求、過去の清算、そして葛藤を経た後に救いに到達する過程として聴くことができる。しかし、アルバム最後の曲「Hurry Up Tomorrow」の終わりの音が、彼の最初のミックステープ『ハウス・オブ・バルーンズ』の最初の曲「High For This」のイントロに接続していることから、この旅路は再びスタート地点に戻るループを構成しているように見えるのだ(※1)。
このループ構造は、しかし、現実的に出口のない状態を示すというよりも、堕落した生活を終わせたとしてもなお、頽廃した「心理的空間」が人が生きる上での拠り所になることを示唆しているように感じられる。敬愛するデヴィッド・リンチにとっての“レッドルーム”のように、エイベルは“風船の家(ハウス・オブ・バルーンズ)”と名付けられた自らの退廃的な「心理的空間」に繰り返し立ち戻っている。「ハウス・オブ・バルーンズ」は、彼の最初のミックステープの表題作だ。冒頭からハイ状態を思わせるフレーズから始まるこの曲では、家出したエイベルが、友人たちと暮らす家で、ドラッグパーティーに明け暮れていたデビュー前の日々が歌われている。“風船の家”に迷い込み、ヤクづけになり、我を失っていく女性に「俺のせいにするのはやめろよ、楽しみたいって言ったのはお前なんだから」とザ・ウィークエンド=エイベルは語りかける。サンプリングされたスージー・アンド・ザ・バンシーズの傑作「ハッピー・ハウス」のギターのリフはやるせなく、エイベルが重ねてリフレインするスージーのサイレンのようなボーカルは、行き場のない息苦しさから生じる悲痛な叫びのように聴こえる。
エイベルの原点とも言えるこの曲は、現在進行中のツアーでもラストから二曲目に演奏されているが、2021年のスーパーボウルのハーフタイムショーでも、ラストの盛り上がりに向かう最も印象的な場面で演奏された。1億人以上が視聴する米国の国民的祭典で、薬中の若者たちの自暴自棄な心情を歌う「ハウス・オブ・バルーンズ」に合わせ、スタジアムの広大なフィールドを笑顔で行進するザ・ウィークエンド=エイベルの姿は崇高だった。そのまま雪崩れ込むようにラストソングの「ブラインディング・ライツ」に移行し、彼とその分身であるダンサーたちがカオス状態で右往左往する中、ショーはフィナーレを迎えた。
ハーフタイムショーの慣例であるゲストもなく、エイベル自身が最初から最後まで歌い、自腹で700万ドル注ぎ込んで実現したこのショーは、ザ・ウィークエンドの孤独で頽廃的な「心理的空間」が、文字通りスタジアム規模に展開した他に類を見ないものだった。それはコロナ禍という人類全員が突如煉獄的な待機状態に置かれた2021年に、悲しさと美しさと滑稽さを伴う自己風刺的な表現によって、私たちの孤独と混乱を癒したのである。
(※1) このループ構造は、デヴィッド・リンチのドラマ「ツインピークス」を愛するエイベルらしい仕掛けだとも言えるだろう。1990年から91年まで放映された「ツインピークス」は最終的に、全てリンチ自身が監督した2017年のシーズン3で完結した。シーズン3では、ローラ・パーマーが死ななかった可能世界が描かれていくが、最終話では、別の可能世界で生きていたローラと思しきキャリーという女性が、クーパー刑事と共にローラ・パーマーの家に戻って来ることになる。
4.頽廃することのできない停滞の時代
2020年に『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、ロス・ダウサット(※2)は『退廃する社会:私たちはどのようにして自らの成功の犠牲者になったのか(※3)』を公刊し、欧米社会は「持続可能な退廃(デカダンス)」の状態にあると主張した。ダウサットが本書で言う現代の退廃(デカダンス)とは、物質的には豊かで技術も進歩しているにもかかわらず、経済の停滞、制度の腐敗、そして文化的な枯渇に陥っている状態を意味する。過去のデカダンスと言えば、ローマ帝国末期や19世紀末欧州のベル・エポックなど、文明の爛熟期を意味し、こうした時期には背徳的な文化が豊かに咲き乱れた。しかし、現在の緩慢な退廃は、文化を生み出す力を失った「頽廃(デカダンス)なき停滞(デカダンス)」だとダウサットは言う。
ダウサットによれば、現在の欧米が停滞しているのは、既に在る消費財を消費するだけで満ち足りてしまい、その安楽が、新しいものを生み出すエネルギーに優ってしまうからだ。冒険や未来への投資に関心がなくなることで、人々は子供を産まなくなり、少子高齢化が進み、社会はますます保守的になる。加えて物理的なフロンティアが消失し、インターネットのVR空間が生まれたことで、人々の過激さへの渇望はネット上の安易な発信やパフォーマンスに吸収されてしまう。新しいものを生み出す野心が生まれにくい社会では、ノスタルジーが流行し、過去作品の続編ばかりが制作されるといった主張だ。
この状況を打開するものとしてダウサットが期待するのが、宇宙という未知のフロンティアと宗教の復興である。2020年に本書が出た後コロナ禍が起き、ダウサットの見立てでは一層欧米社会は停滞した。そしてコロナ禍が明け2020年代半ばに入った今、一方でNASAやイーロン・マスクらによる宇宙探索が再開し、他方で欧米では都市部で若者のカトリック回帰が起きている。残念なことに世界では戦禍も広がっているが、何らかの停滞を超えた動きが起き始めているのは確かだろう。
以上のダウサットの議論を前提にするならば、この“デカダンスなきデカダンス”の21世紀に、一貫して頽廃的な「心理的空間」を創造の源泉にしていたエイベルが、いかに例外的な仕事をしてきたかがわかる。端的にポップで聴きやすいということと同時に、あるいはそれ以上に、彼が頽廃的な世界観を深めていたほぼ唯一のポップスターだったことは、ザ・ウィークエンドの音楽が記録した驚異的なストリーミング回数と無関係だとは思えない。2026年5月現在、彼の「ブラインディング・ライツ」は54億回再生を突破し、Spotify史上最も多く再生された曲の記録を保持している。また、30曲が1億回再生を達成した初のアーティストでもあり、常に1億人以上の月間リスナーを維持していると言われている。
(※2) ダウサットはプロテスタントの一教派、ペンテコステ系福音派からカトリックに改宗したアメリカ人だ。こうした背景もあって、アメリカのプロテスタント的進歩主義の中では “頽廃”が育たず、“停滞”になってしまうことを見抜いているのだろう。その上で、彼は、21世紀の英米の若者がカトリックのラテン語のミサのような審美的な形式的儀式に惹かれている現象に、停滞状況を破ろうとするポジティブな動きを見出している。
(※3) The Decadent Society: How We Became the Victims of Our Own Success(Avid Reader Press / Simon & Schuster, 2020.
5.頽廃できないプロテスタント・アメリカに代わるもの
ダウサットは、基本的に退廃=停滞からの脱出を望ましいこととして、上記のような議論を立てているが、「頽廃(デカダンス)」の真の可能性とは、次の進歩を準備することではない。それは、進歩の枠組みそのものを捨て、体験そのものを深め、自らを蕩尽することにこそある。結果として、次の展開への起爆剤になるということはあるだろうが、進歩や改革の枠に留まる限り“頽廃”は “停滞”にしかならないだろう。
それゆえ道徳的な潔癖さを重視し、「改革」を常に求め、近代化の基盤となったプロテスタント文化には、本質的にデカダンスは不可能である。進歩的なプロテスタント文化では、止まることはメランコリー(抑鬱)を引き起こす(※4)。それゆえ19世紀末の英国の文学者、オスカー・ワイルドは自らの審美的なデカダンス文学を極めるにあたり、カトリックに改宗する必要があった。カトリックは、同じく19世紀末のカトリック国・フランスでデカダンスを極めた文学者、ジョリル=カルル・ユイスマンスの『さかしま』に顕著なように、罪への堕落と改悛そのもののなかに美的体験を見出す伝統を持っているからだ(※5)。
プロテスタンティズム国アメリカ合衆国という文脈から見ると、“頽廃の王”とも呼ぶべきエイベル・テスファイが、カナダ人のエチオピア正教徒であるということは、ある意味出来過ぎと言ってよいような話だ。実はダウサットが欧米で最もデカダンスな(持続的に停滞した)国として挙げているのは、カナダである(※6)。またザ・ウィークエンドの音楽が南米、スペイン、フランスといったカトリック文化圏で圧倒的な支持を得ていることも、頽廃が肯定的な意味で根付いた非プロテスタント文化圏ならではのこととして理解できる。
進歩や成功しか認めないアメリカ的なプロテスタンティズムにおいて、“恥”は耐え難い苦痛にしかならない。例えば社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールドは、現在のアメリカの右派の躍進の背景に、誇りを奪われ“恥”の感情に囚われた白人労働者たちを見出し、トランプ大統領はこうした人々の“恥”の感情を偽の“誇り”や怒りに置き換えることでカタルシスを与え、右派政治へと動員していると分析した(※7)。
エイベルの物語はこの右派に動員される労働者たちの物語とは対照的だ。父親に捨てられ、自らも母のもとを去り、友達の家を転々とするホームレス生活をしながらドラッグとセックスに溺れていたエイベルの頽廃的な「心理的空間」は、ただ“恥”の感情に留まることができる場所だ。デカダンスを生きる者は進歩も“誇り”へのすり替えも求めない。進歩の枠組みを捨て、救いと聖性を求める時、人は自分の恥辱と罪深さに留まることができる。カタルシスは、最低の状態、罪深さの深みにおいてしか訪れない。この「心理的空間」には大文字の政治が入る余地はない。このように頽廃から生まれる創造性は、進歩を求めることを止められないプロテスタント的精神からは見ることができない、全く別の景色を見せる。
エイベルが提示したこの非アメリカ的な物語は、実は日本人である私たちにとって非常に大きな意味を持っている。2026年初頭にエイベルは、長期に渡り日本に滞在し、様々なアーティスト、漫画家、クリエイターたちと交流する様をインスタグラムで公開し、世界中のファンだけでなく、何より私たち日本人を驚かせた。実はカナダ人のエイベルが、自身の頽廃的なアートを極める中で参照し続けていたのは日本の漫画やアニメだった。彼が日本から得たインスピレーションの一端(その全貌を私たちは2026年末のアジアツアーで観ることができるのかもしれない)、例えば南米ツアーで公開された、新世紀エヴァンゲリオンの主題歌「残酷な天使のテーゼ」の神聖ささえ感じさせるサンプリングや新曲「RIO」の三池崇史が監督したMVを見ていると、日本人が自分たちの文化を“停滞”としか生きられないのだとしたら、それは進歩の枠組みに囚われすぎているからなのではないかと考えさせられる。
エイベル・テスファイがザ・ウィークエンドというペルソナで作り出した極上の頽廃的な音楽世界は、2010年から2020年にかけての欧米に決定的に欠け、それゆえ渇望された「心理的空間」だった。と同時に、それは、ほかでもない私たち日本人に、「進む」のではなく「深める」ことによって開かれる、私たち自身がまだ気づいていない突破口を示す一つの啓示だったと言えるのかもしれない。
(※4) ダウサットはインタビューの中で、Ye(カニエ)はデカダンスではないと言及している。確かにどこまでも改革を求め、しばしば止まることに耐えられずに暴発しているYeは、極めてプロテスタント的でアメリカ的なアーティストだと言えるのかもしれない。
(※5) 堕落も含めた否定的なものがそのまま救済されていく過程に甘美さを見出す美的感覚は、古代末期のキリスト教神秘主義にまで遡ることができる。
(※6) カナダはカトリックが多く住むフランス語圏、ケベック州を持つため、カトリック人口が多い(30~40%)。それ以外の地域はプロテスタントが多く、無宗教も広がっている。
(※7) 社会心理学では“恥”は社会的な感情で、他者との比較のなかで生じる感情だとされ、例えば人類学者のジョセフ・ヘンリックらは、プロテスタンティズムが普及するに連れ、個人主義化が進み“恥”が“罪”の感情に取って代わったと分析する。こうした文脈をふまえると20世紀後半から“恥”の感情の重要度が増していることは考えるに値する問題である。また言うまでもなくこれは、私たち日本人の文化を“恥の文化”としたベネディクト・アンダーソンらの仕事も思い起こされる問題系である。参考:ジョセフ・ヘンリック『WEIRD「現代人」の奇妙な心理(上・下)』今西康子訳、白揚社、2023年。