「都市再開発」は自然破壊だけをもたらすのか? 人文学の視点から問題を捉え直す書籍を読む

2023年11月24日(金)に開業した麻布台ヒルズ

  麻布台ヒルズで遊ぶ子どもと自然と再開発と2023年、東京港区に誕生した麻布台ヒルズを訪れたときのこと。その中央広場は緑に囲まれていて、都心の中でも自然が多い。そこで子どもたちがはしゃぎながら遊んでいた。麻布台ヒルズにあるイングリッシュスクールの生徒だ。彼らにとってみれば、麻布台ヒルズの自然が、幼少期に遊んだかけがえのない思い出になるのだろう。

  麻布台ヒルズだけでなく、MIYASHIATA PARKにGRAND GREEN OSAKA、そして神宮外苑……。現在、都市再開発があらゆる場所で行われている。

  その度に問題になるのが、この「自然」の問題、特に「樹木の伐採」だ。特に神宮外苑の再開発では、その景観を作るイチョウが多く伐採される計画案に反対の声が挙がっている。一方、この計画では伐採されるイチョウよりも多くの植樹がされるため、再開発反対派の根拠を問う声も上がっている。2024年の東京都知事選では、政策論争の格好のエサともなり、野党陣営の候補者が(選挙期間中は)積極的に再開発反対運動を支持するなど、なかば政治マターの様相も呈している。

『都市の緑は誰のものか 人文学から再開発を問う』(ヘウレーカ)

  そんな混沌とした状況の中、「人文学」の視点から都市と自然の問題を捉え直そうというのが本書『都市の緑は誰のものか 人文学から再開発を問う』である。人文学と一口に言ってもその範囲は広い。そのため本書では、美学・倫理学・地理学・場所論・民俗学や文学など、幅広い知見から都市と自然の問題が語られる。元は、2023年に開催されたシンポジウム「人文知の視点から見た神宮外苑再開発問題」をきっかけとして誕生した書籍だが、話題は神宮外苑再開発問題にとどまらない。現在の「都市と自然」を広い視野から捉え直すものになっている。

自然における「関係的価値」の重要性

  しかし、それぞれの記述は、バラバラな方向を向いているのではない。それは、終章のまとめを読むと、よくわかる。

 都市に住む全員にとっての守るべきインフラとして 「道具的価値」において語られることの多い都市の自然を、「関係的価値」において語る意義を強調する本書では、「故郷」としての都市の緑地、場所の記憶や都市の風土を継承する依り代となるものとしての緑地、都市生活者にとって日常の喧騒から離れることができる空間としての緑地という側面から価値が述べられていることがおわかりいただけたことと思う。(p.266-267)

  一般に「都市にとっての自然」というと、その自然が「どんな役に立つのか」を考えがちだ。わかりやすく言えば「ここに木が100本あることで、CO2がこれぐらい削減できる……」というように。本書では、これを道具的価値と呼ぶ。自然の有用性を数値化して、なるべく定量的にその価値を測る点で「科学的」なアプローチだといえるかもしれない。神宮外苑再開発でも、樹木伐採に伴う二酸化炭素の吸収量が論点になるが、それは自然を道具的価値で捉える議論だ。

  それに対して本書で提唱されるのは、都市と自然における「関係的価値」の重要性だ。「精神的なつながり」とも言い換えられるこの言葉は、自然に対する人間の情緒的な価値のことを言う。自然に対して人間が持つ愛着や安心感、あるいはそれが無くなるときに感じる寂しさなど、自然に抱く感情的な側面をまとめてそう呼ぶのだ。自然は、すべてが計量的にその価値を測ることができるわけではなく、人間にとって数字にはできない、いわく言い難い価値を持つものだ。人文学とは書いて字のごとく、人間そのものについて探求を深める学問であり、その点でこうした人間的な側面から自然を捉える重要性を本書は訴えている。

「人文学から都市論を見る方法」のショーケース

  一方で筆者は、本書が持つ力は「都市と自然の問題」に限らないのではないか、とも思った。この本全体を「都市論にとって人文学は何ができるか」を再考する本としても読むことができると感じたのだ。

  複数の著者によって書かれたそれぞれの章を読んでいると、明示はされないけれども、これまでの人文学が都市論に対して行なってきたさまざまな試みが浮かんでくる。

  例えば、第一章の「神宮外苑」をその土地性から考察するその手法は、明らかに中沢新一の『アースダイバー』や鈴木博之『東京の地霊』を思い起こさせる。中沢や鈴木は、地形などから生み出される「土地の記憶」がどのように現在の都市に繋がるのかを語るが、この章はその思想をアップデートして、神宮外苑という「いま」に接続しているともいえる。

  また、ルプレヒト・クリストフによる第6章「すべての生き物のためにデザインされた共存共栄都市へ」では、あらゆる生物種の観点から都市を捉え直す「マルチスピーシーズ」について議論されている。これは柳瀬博一の『カワセミ都市トーキョー』も思い起こさせる。柳瀬はそこで「カワセミ」の視点から見た東京の姿を描いているが、本書では「ミツバチ」の視点から見た都市が描かれる。いずれにしても人文的な都市論の先端の知見がそこにある。

  さらに、高橋綾子による第9章「場所や自然とどのような関係をもつべきか」では、文学テクストから都市と自然の関係が考えられている。人文学では、前田愛をはじめとするさまざまな人々が、文学から都市を読む、あるいは都市を文学のように読む方法論を確立してきたが、その対象を都市と自然に置き換えているとも読めるだろう。

  その意味において本書は「人文学から都市論を見る方法」を開示するショーケース的な著作だといえる。人文学を学びながら都市論に興味がある人は、ぜひ、一読することをおすすめしたい。

人文学的概念が政治的判断に拙速に結びつけられてしまう残念さ

  というわけで、概して興味深く読んだ一冊であるが、最後に一点、筆者が個人的に残念だと感じた点を述べておく。

  本書が基本的には「神宮外苑再開発」に対して反対派の立場を堅持している、ということだ。再開発に反対することが残念、というわけではなく、せっかく本書で示された豊富な理論的見取り図が最終的に「神宮外苑再開発(および近年の再開発)への反対」という政治的判断に拙速に結び付けられてしまっているように感じてしまったのだ。

  それは、前書きの最後に書かれている「本書によって、都市とそこに住む人々(および他の生き物)に対する認識が広がり、視野狭窄(今だけ、ここだけ、自分だけ)に陥っている近年の都市再開発に一石を投じることができれば幸いです」という一文からも明確だ。「近年の都市開発は良くない」という認識のもとに全体の議論が進んでいる印象を受けるのだ。

  人文学とは本来、ある問題に対してその是非を判断するものではなく、その問題の背後に含まれる本質的な問題を捉えるものである(哲学がその良い例かもしれない)。つまり、神宮外苑再開発やその他の再開発について、その是非をすぐに判断するのではなく、むしろその前に「留まることができる」のが人文学の良さである。

立ち止まるための人文学を

  実際、本書で提示されている豊穣な概念は、近年の再開発について立ち止まらせてくれるものだ。

  具体例をあげよう。本書では場所に対する愛を「トポフィリア」と呼ぶ地理学者イーフー・トゥアンの議論を参照しつつ、自然を考えるときには人々がそこに対して抱くトポフィリアが重要だという。だから、木を植え替えるにしても、ただ同じ量の木を植え替えればいいのではなく、「その場所」に植えてある「その木」だからこその良さを考えるべきであり、安易な移植はこうした「場所への愛」を失わせるという。

  しかし、裏返してみれば、その場所愛は新しく誕生した都市風景に対しても根付いていくものであり、むしろ再開発後の景色に愛着を持つ人々もいるはずである。その点は本書でも触れられているのだが、その可能性について深く掘り下げられることがなく、最終的には「やはり、近年の再開発は良くない」といった論調に収束してしまうのだ。

  冒頭で、麻布台ヒルズで遊ぶイングリッシュスクールの子どもについて触れた。彼らにとっては、それが子どもの頃からの自然であり、思い出である。そう考えると、結局のところ、再開発を場所愛という言葉によって「反対」するのは、一面的な見方に過ぎないともいえる。

  再開発を多面的に捉え、その可能性を考えるのは難しい。でもそれは、人文学だったらできることなのではないか。その人文学のポテンシャルをもっと突き詰めて欲しいと、率直に感じた。  人文学が都市の問題を考えるためにできることは多いはず。それは、本書が示していることだ。その点で、本書の内容を適宜「使いつつ」、再開発を考え直していくことが、これからの都市論を語る人にとっての課題なのだろうとも感じるのだ。

関連記事