松村早希子の「美女を浴びたい」

椎名林檎という存在の回顧展ーー『椎名林檎と彼奴等がゆく 百鬼夜行2015』を観て

 「神様、仏様」MVコンセプトの拡大版とされる『百鬼夜行』ツアー。「此方人等一等恐いのは自らよ」、本当に恐いのは誰?

椎名林檎 - 神様、仏様 from百鬼夜行

 真っ暗闇にお経が響き渡るステージ。紗幕の向こうから薄明かりの中聴こえてくる一曲目は、世間から勝手にレッテルを貼られることへの苛立ちを歌う「凡才肌」。

 続いて、大正浪漫柄の和服姿、ナース服にハイヒール、艶めかしいランジェリー、拡声器、ボンテージファッション、ネオン輝く歓楽街とキャバレー。大衆が抱く「椎名林檎といえば」という要素が衣装で一つ一つなぞられていきます。髪型も、これまでの豪奢なウィッグやヘッドドレスを駆使した七変化とは違い、黒髪ボブに固定されたまま。

 カテゴライズを拒否し続けてきた人であり、他者からレッテルを拒否する曲で始まり、提供曲・初期曲・東京事変曲が入り混じった完全に「ご贔屓さんでしたらお分かりですよね」というセットリストでありながら、過去の自身のアイコン的衣装を重ねていく矛盾は、イメージを押し付ける大衆の愚かさを弄んでいるかのよう。流動的で形の定まらないものは人を不安にさせ、だからこそ人は固定観念に当てはめて安心したがる。そして「虚言症」の「ボロボロになりながらもこの世で生きて行く」という宣言で、本編が終わります。

 大衆に消費され殺されかけた末の必死の足掻きと切実な叫びの「凡才肌」と十代で書かれた「虚言症」、最初と最後に極私的な感情の吐露を置き、けれども衣装は彼女の商業的・芸能的なパブリックイメージ。内面と世間が入り混じり混沌としたさま、それこそが『百鬼夜行』なのかもしれません。では鬼は誰なのか? 彼女にイメージを押し付ける大衆? 選民意識とよく揶揄される(私のような)林檎崇拝者? それとも、「此方人等一等恐いのは自らよ」と歌う彼女自身?

 エンドロールでは「二人ぼっち時間」に乗せて、2015年の彼女と本ツアーで率いたスペシャルバンド・MANGARAMAのメンバーが「ドラゴンボール」を想起させる画風でデフォルメされ描かれていました。壮大な謎かけのようなライブ本編のヒリヒリする緊張感を一気に脱臼させると同時に、この世の全ては漫画だよ! と、笑い飛ばしてくれる終わり方でした。

 10年ほど前にテレビ番組で、観客の「大切にしている言葉は?」という質問に「『実直』です」と答えた彼女。『芸術家といえば破天荒で社会不適合』という勝手な世間のイメージに反し、真面目で堅実な努力家です。デビュー時から変わらず「客商売」を第一に掲げ、エンターテインメント性=お客様を楽しませることを最優先としています。その姿勢を貫いた結果、オリンピックの引継式演出を手掛ける国民的芸術家となった「真っ当さ」は、理不尽な事ばかりがまかり通るこの世の中における希望とも言えます。

 『百鬼夜行』ツアーに二度出向き、文句なしに大満足だったのですが、ただ一点、私の本当にどうしようもなく勝手でミーハーな「林檎様のお顔を近くで拝見したい」という欲望だけが満たされなかったので、今回のBlu-rayリリースには狂喜乱舞しました。

 こんな表情をしていらしたのね、こんな風に肩を動かしている、着物の柄に黒猫堂の紋が入ってる……等々、全身で音楽を体感するライブとはまた違った、映像ならではのときめきを貪り尽くしました。

 自身を「のっぺりした印象の薄い」顔だと度々発言していらっしゃいますが、こんなに印象の強いお顔はそういないのではと思います。すっきりした鼻筋の鋭利さ、かたや長めの人中(鼻の下)はなだらかな山脈のような美しさ。私の嗜好のルーツは林檎さんのお顔です。

 一般的に「憶えられない・憶えづらい顔」と言われているのは髪型・化粧・服装を目まぐるしく変えているためで、大衆のカテゴライズから逃れつつ、音楽家としての姿勢同様に、まっすぐな鼻筋と人中はどんな格好の時でも輝きを放っています。

関連記事