never young beachのライブに見た、音楽家としての振れ幅 “日常”のムード溢れたツアー最終公演
一方、never young beachの作品はこれまでしばしば快楽主義的などと喩えられてきて、時には現実逃避、ノンポリなどと揶揄されることも少なくない。確かに快楽的ではある。この日のステージでも特に終盤はフロアをより一層煽っては客の腰を振らせる。筆者の隣で見ていた賑やかな男の子たちも、後半はバー・カウンターへせっせとビールのお代わりを買いにいくようになっていた。
だが、音楽家として確実に振れ幅を持たせようとしていたことを聴き逃さなかった人も多かったはずだ。特にこれまでの2枚のアルバムには収録されていない、その後制作されたのだろう新曲たちが、ユルいギターのカッティングで引っ張っていくだけではなく、時にはメロウなハーモニーだったり、時にはシャープなドラミングだったり、時にはこれまで抑え気味だったベースが3本のギターをも凌駕して低音の波を作っていたり……。安部のボーカルもますます“コブシ”が回るようになって、ソウル・シンガーの境地へと近づこうとしていた。でも、音楽的なボキャブラリーに支配されすぎていないから、オーディエンスが置いてきぼりになることはない。そこがいい。
もしかするとそういう意味では、メジャー・デビューが決定している中行われた今回のツアーは、never young beachにとって次のステージにシフトしている途中をそのままカタチにしたものなのかもしれない。そう、あたかもソウル、サイケ、ロックの要素を貪欲にとりこんでトラディショナルなボサ・ノバなどと合流させていた70年代のカエターノ・ヴェローゾがそうだったように。それでも、彼らはあっちに行ったまま戻ってこれなくなっちゃった(戻って来る気もない)、どうにも止まらない自分たちがどうしようもなく可笑しくて仕方ない、といったフルスロットルという名の日常の色彩を決して失わせない。中途半端にハッピーエンドならいっそバッドエンドでいいじゃん的な覚悟のようなものをずっと抱えているから、彼らはアンサンブルの中で音楽的な再編を試みても潔さが後退することは決してないのだ。だから、観ている者たちを笑顔にする。
ハリボテのショービズに飛び込み、真っ向から対峙しようとする今のnever young beachの勢いはもう誰にも止められないだろうし、足を引っ張ってもいけないだろう。船出の先に見える景色は広大無辺だ。
(写真=Ray Otabe)
■岡村詩野
音楽評論家。『ミュージック・マガジン』『朝日新聞』『VOGUE NIPPON』などで執筆中。東京と京都で『音楽ライター講座』の講師を担当している(東京は『オトトイの学校』にて。京都は手弁当で開催中)ほか、京都精華大学にて非常勤講師、α-STATION(FM京都)『Imaginary Line』(毎週日曜日21時~)のパーソナリティも担当している。