中西俊夫という突出した才能を失ったーー荏開津広がキャリアと功績を振り返る

 スタイリストとスタイルに敏感なグラフィック・デザイナーやアート・ディレクターたちが結成したPLASTICSの成功は、彼らがどう見えたか、そのルックスの取沙汰が多い。しかし、その魅力は当然、視覚的アピールだけではなく、こうした彼らのサウンドの同時代性でも判る。また、PLASTICS期からその最後まで、中西俊夫は歌詞を自分で書いたと思われるが、ヘヴィー・ウェイトなビート作家ウィリアム・バロウズなどに強く影響を受け、カット・アップ・メソッドを取り入れていた。当時から注目され始めた、美術や文学の方法をロック/ポップに転用/応用させるアーティストたち(デヴィッド・バーン、Radiohead etc…)と中西は意識も方法も共通していた。

 彼の知性は、デビュー当時のPLASTICSの周囲にいた大人たち(彼がいたイラストレーターであるペーター佐藤のスタジオに出入りしていた人々)に注意を向け、自分たちがどう見えるのか、そのことをユーモアたっぷりに、表現として成立させたともいえる。1970年後半の原宿から活動を始めた彼は、当時のロンドンやニューヨークと東京、それぞれの一部で繋がっていたような新しいライフ・スタイルを“ポップ・ライフ”と呼んでいた。同時に、その背景に痛みを伴った“西洋化=近代化が戦後の日本だった”(註1)というはっきりとした認識があった。こうした観点から、また彼が日本に帰国してからの多くのセッション的なディスコグラフィーも含めて、彼のアートについての評価は不十分極まりない。

 2016年5月には、PLASTICSの40周年としてのライブがブルーノート東京で行われた。日本と世界でのポピュラー音楽を巡る状況の変化を考えると、中西俊夫にはこれからの旺盛な活動が期待された。私たちは突出した才能を失ってしまった。

 中西俊夫さんのご冥福をお祈りします。

註1: 著書『プラスチックスの上昇と下降、そしてメロンの理力・中西俊夫自伝』(K&Bパブリッシャーズ/2013年)

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

関連記事