集中連載:90年代ジャパニーズヒップホップの熱狂 第2回

90年代ヒップホップ集中連載2:元祖B-BOY・CRAZY-Aが語る“4大要素”の発展と分化

「Run-D.M.C.が出てきてから、4大要素が分化していった」

ーーでは、CRAZY-Aさん自身がラップを始めたのは?

CRAZY-A:88〜9年頃からやり始めたのかな。B-FRESHの連中はもともとみんなダンサーなんだけど、遊びでラップを始めたんだ。当時はヒップホップの4大要素のすべてがまだ原始的だったから、誰でもできることだったんだよね。グラフィティなんて、いかに自分の名前をカッコよく描くかだけの落書きだった。だから本当にNetflixの『ゲットダウン』みたいなノリで、どれも子どもたちがブロンクスで遊びとして始めたものだったんだよ。B-BOYには、“ブロンクスボーイ”って意味もある。たぶん、そっちの方が最初なんじゃないかな。

ーー4大要素がいまみたいに分化していったのは、いつ頃だったのでしょう?

CRAZY-A:86年にRun-D.M.C.がエアロスミスの楽曲をモチーフにした「Walk This Way」でブレイクして、みんながラップもやり始めた後、4大要素のひとつひとつが成熟していった80年代後半くらいから徐々に分かれていったんだと思う。俺らの場合はダンスから始めて、4大要素のすべてに触れたけれど、Run-D.M.C.に影響を受けてラップから始めた人は、そのままラップだけを追求していくみたいな感覚だったんじゃないかな。その頃からブレイクビーツも、ラップ用の遅めのトラックと、踊る用の早めのトラックに分かれてきた感じだと思う。RHYMESTERが99年に「「B」の定義」(『リスペクト』収録)で俺をフィーチャリングに迎えてくれたのは、改めて4大要素があってのヒップホップだということを示そうとした部分もあったんじゃない。

ーー92年にはEP『PLEASE』をリリースしています。日本語ラップの音源としては、かなり早い時期に発表された作品です。

CRAZY-A:当時はすでに30歳くらいだったので、早くなにか出したいと思って、ファイルレコードの佐藤善雄さんに無理やり出してもらった感じ(笑)。バブルガム・ブラザーズ「Won’t Be Long」のラップバージョンをメインにするなら良いよって言われて、Bro.KORNさんにも参加してもらって。日本語ラップは、いとうせいこうさんやMajor Forceの連中がすでにやっていたけれど、彼らはもともと新しい音楽としてやっていて、俺らみたいにストリートのヒップホップカルチャーから入ってきているのとは違うから、対抗意識があったというか、俺だってこれくらいのことはできるんだっていうのを見せたかったのかもしれない。

ーー94年にはEAST END×YURIが、同じくファイルレコードから『DA.YO.NE』をリリースして大ブレイクしますが、どのように見ていましたか?

CRAZY-A:EAST ENDは「アイドルと一緒にやれば絶対に売れるのに」って、俺は最初から言ってたの(笑)。佐藤さんは「そんな簡単にはいかないんだよ」って言っていたけれど、ポーンって売れちゃった。彼らはあの曲の後、いろいろと大変だったみたいだけど、メインストリームで売れる曲は必要だったし、俺はヒップホップにはいろんなスタイルがあって良いと考えているから、全然アリだと思っていた。m.c.A・TとかTINNIE PUNXSも、ライバル視していたところはあったけれど、いろんな人がいてこそ発展するから。そもそも、ヒップホップ人口が少ないのだから、みんな表向きはバチバチやっていたけれど、どこかで仲間意識は持っていたんじゃないかな。だって、相手がいないと戦うこともできないからね(笑)。自分たちだけではヒップホップはできないんだよ。(続きは12月上旬発売予定の『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』にて)

(取材・構成=編集部)

■書籍情報
『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』
価格:1,620円
発売:12月上旬予定
単行本(ソフトカバー): 192ページ(予定)
出版社: 辰巳出版

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