『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー

eyelisが考える、アニソンの表現論 「小難しいアレンジをしても、テレビのスピーカーからは聴こえない」

 

 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、KinKi Kids、AKB48、Doll☆Elementsなどを手掛ける川崎里実(以下、川崎)と、SMAP、竹内まりや、SKE48などで作編曲を担当する増田武史(以下、増田)、嵐、NMB48、NEWSなどに楽曲を提供している前口渉(以下、前口)により結成された、サウンドクリエイターユニット・eyelisのインタビュー記事を公開した。

 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。メンバー個々がアニソンを手掛けていた縁で結成された同ユニットについての話や、作家としての転機、アニソンの作り方から最新作について、じっくりと語ってもらった。

「コンペで聴いてもらえる曲って、すぐにキャッチーな展開があるもの」(川崎)

――3人が音楽家としてのキャリアをスタートさせたのは?

川崎:ヤマハの音楽スクールでエレクトーンを始め、小学校に入るころ、クラシックピアノに転向しました。「譜面通りに弾きなさい」というのがすごく嫌で、勝手に和音を足したり、アレンジして弾いたりしていたので、先生にはあきれられていましたね(笑)。ただ、「自分ならこうしたい」と思ったことが作曲に繋がり、10歳ころから、自分でピアノを弾いてメロディを作るようになりました。中学生時にはクラスの発表会で作曲を求められることがあり、「今度はドラムやベースをつけたい、デモテープを作りたい」と思いはじめ、高校を卒業して専門学校に入りました。ただ、中・高生のときは重ね録りが分からず、キーボードについているシーケンサーでリズムを鳴らし、ピアノとベースを同時に引くというトリッキーな録音をしていました。

前口:その録音方法はすごいね(笑)。僕は暗い子だったので、ずっと深夜ラジオを聴いていたのですが、中学2年生の5月にTOKIOの国分太一さんがパーソナリティを務めていた番組でディープ・パープルの「Highway Star」が流れて、衝撃を受けました。自宅は親がクラシックをやっていたため、父がクラシックギターを持っていたり、家に木琴や鉄琴があったりと環境は整っていたのですが、エレキギターは無くて。だから翌日にエレキギターを買いに行って、そこからはロック一筋。バンドを組んで、主に60's、70'sのハードロックをコピーしてコンテストに出場していました。

増田:僕は、姉がピアノを習っていたので、幼いころからその音を聴いていたことが音楽の原体験かな。あとは、男性シンガーの歌謡曲やニューミュージック等も好きで、フォークギターを手に弾き語りを始めました。また、ギタリストとしてアル・ディ・メオラや高中正義さんに影響を受け、ジャズ・フュージョンの世界にも足を踏み入れました。高校時代はバンドを組んでいたのですが、卒業後その流れで、専門学校に入学しました。

――プロを目指そうと思ったきっかけは?

前口:最初は「世界一のギタリストになりたい」と思っていたんですけど、23、24歳で「あれ、俺ってそんなに上手くないんじゃない?」と、自分の壁にぶちあたってしまった。並行して、着メロ製作のバイトをしていたのですが、そこでDTMを扱ったとき、徹夜でやり続けるくらいハマったんです。気づいたら『Cubase』の使い方も覚えていて。そこから曲を作りはじめるうちに、自分はプレーヤーよりもコンポーザーの方が向いていると確信しました。

増田:僕もリーダー(前口)と同じで、スタジオミュージシャンを志してギターの専門学校に入り、在学中にプレーヤーとしての仕事もいただくようになりました。ただ、読譜力などがやや不足している感じがありまだまだでした。それとは別に自分の声を活かした歌やナレーションの仕事もしていたのですが、どちらも先行きに不安はありましたね。これもリーダーと同じなのですが、カラオケや着メロの打ち込み仕事をするようになり、技術がどんどんついてきました(笑)。

前口:ぼくは着メロの仕事をするとき、いつか役に立つかもしれないと思って、わざわざ譜面に一度起こしていたのですが、これが結構糧になりましたね。その後、着メロの仕事をしつつ、本当にやりたいのはこれではないと思っていたので、お金を貯めて「作曲家になるので辞めます」と会社に直談判し、退職しました。当時から、妙な自信があったんです(笑)。ただ、1年分の食料とか貯金しかなかったので「この一年でダメだったら辞める」という気持ちで臨み、20社くらいデモテープを送ったなかで現在の事務所から声が掛かり、1発目のコンペでいきなり『ときめきメモリアル』の主題歌に採用されました。また、お試しで書いた曲がディレクターに評価されて、コンペに提出したところ、ジャニーズの楽曲として歌われることになりました。今から思うと非常に良いスタートダッシュでしたね。そこからは自信と確信、やりたいことという3つを常に持って頑張っています。

増田:僕はギタリストとしてアーティストのツアーに帯同したり、レコーディングに参加していたのですが、その一方で、その代わりに打ち込み環境での制作が上手く行くようになり、現在の事務所にデモテープを送りました。そして玉置成実さんの楽曲に採用されたことから、プロの作家としての道を歩むことになったんです。

川崎:私は専門学校が3年コースだったのですが、在学中に今の事務所のディレクターさんから声を掛けて頂いたんです。でも、それまでコンペにも受かったことがなかったので、プロになってちゃんと食べていけるのか不安になって。卒業後一年はアルバイトをしながら悩んでいたのですが、その後やっと決意して「お世話になります」とメールをし、預かり作家としてコンペに楽曲を提出するようになりました。すると2カ月後にはKinKi-Kidsさんの「ビターショコラ」が決まり、プロの作家としてデビューすることができました。

――川崎さんが在学中にコンペで受からなかった曲と、「ビターショコラ」の違いは何でしょうか。

川崎:いちばん違うのが、サビにいくまでの時間です。事務所が決まってから、ディレクターさんに「このイントロは要らない」と切り捨てられることが多かったことで勉強になったのですが、コンペで聴いてもらえる曲って、すぐにキャッチーな展開があるものなんです。だから「ド頭にサビを持ってくるか、1分程度でサビにくるようにしてあげる」ことが大事ですね。

――増田さんはどうでしょうか。

増田:やはりコンペは壁でした。通るときは通るけど、通らないときは本当に通らないし、自分がいいと思ったものが必ずしも通るとは限らない。その辛さは、常々ありますね。必ずしも当てはまるわけではないのですが、曲でもメロディでも、エネルギーの強いものーー1日寝かせてもまだ「良い」と思える曲であればあるほど、通る確率が高いと思います。

川崎:私も、まだそのボーダーラインが分かってなくて、「これですか!?」という曲が受かる時はあります。でも、コンペで提示される要件について、「この曲は絶対この人が歌う」と、自分に決め打ちで発注されたと考えると、そのエネルギーは強くなるように思います。

前口:若い人って「俺独自の曲だ」とか「完全なオリジナリティだ」みたいな尖ったことを言いがちなのですが、一番大切なのは歌えること、ポップスであることで、小難しさを加えるのは、当たり前のことができてからやるべきだと思います。あと、アニソンに関しては、小難しいアレンジをしても、テレビのスピーカーからは聴こえないんですよ。なので、どんなメロディかをしっかり聞き取れる曲に仕上げるのが大切です。

――増田さんは、キャリアの中でどの楽曲が転機になったのでしょう。

増田:アニソンに関しては、僕もプロになってから、ポップスとの違いで壁に当たりました。その答えが見えたのは、『ハヤテのごとく!!』のエンディングテーマになった「本日、満開ワタシ色!」ですね。違うビートでアプローチしていたのが、ディレクターの一言でリズムを変えたことで、一気に疾走感が加わって「これか!」と確信しました。ポップスに関しては時代に合わせてタイミング毎に更新されているので、1曲を選ぶのは難しいですが。

――前口さんと川崎さんは、キャリアの中でどの楽曲が転機になったのでしょう。

前口:作曲・編曲でいうと、『神のみぞ知るセカイ』のオープニングになった「God only knows」。この曲は10分くらいの長尺で、『Pro Tools』がダビング中に止まるくらいの重さのうえ、トラック数も180トラックくらいあり、作るのが本当に大変でした(笑)。「もうこんな曲やりたくない!」って思ったんですけど、結局、3クール続いたりして。ただ、それだけ大変な仕事を終えると、それ以降の案件が楽に思えてきました。苦しいことは、あえてやってみるものですね。

川崎:私は、『ハヤテのごとく!!』の、マリアと三千院ナギが歌うキャラソンであり、自分がアニソンに初めて挑戦した「AFTER O:00」ですね。もともと『攻殻機動隊』や『新世紀エヴァンゲリオン』が好きで、専門学校時代に菅野よう子さんを知って「こんな人がいるんだ」と尊敬し、将来的にアニソンが書けたらいいなと思っていたので、嬉しかった記憶があります。当時は「電波ソングを作って」とオーダーされ、『らき☆すた』や『涼宮ハルヒの憂鬱』あたりのキャラクターソングを聴き、とにかくスピードの速い、シンセサイザーをふんだんに使った曲をゴール地点として書きました。

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