矢野利裕のジャニーズ批評
ジャニーズが戦後日本にもたらしたものーーアメリカ文化をどう伝えてきたか
敗戦から70年が経過した。安保法案をめぐって、戦後日本における民主主義のありかたを問い直すような議論も盛んである。文化と政治というのはおうおうにして、切っても切れない関係にある。ジャニーズという芸能文化も、戦後日本というありかたのなかで考えなくてはいけない。大げさな話に聞こえるかもしれないが、ジャニー喜多川という人物の来歴を踏まえるならば、それほど大げさな話ではない。
強調すべきは、ジャニー喜多川がアメリカで生まれている、ということである。ジャニー喜多川の細かい生い立ちについては諸説あるが、本格的に日本に拠点をかまえるのは、戦後の1952年だとされている。すなわち、日本が主権回復をした年だ。米軍関係の仕事で、朝鮮戦争に関わっていたと言われている。ジャニー喜多川は、日本の主権回復とともに、アメリカからやってきた人物なのである。
当時、ワシントンハイツと呼ばれるアメリカ軍宿舎(現在の代々木公園一帯)に住んでいたジャニー喜多川は、そこに少年たちを集めて野球を教えていた。野球チームの名前は、「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て、「ジャニーズ少年野球団」に定着する。この野球チームにいたのが、初代ジャニーズの面々である。つまり、ワシントンハイツに集められた野球チームこそ、ジャニーズの母体にあたるものなのだ。初代ジャニーズのデビューは1962年、その後、フォーリーブスや郷ひろみなどが続いて、わたしたちのよく知るジャニーズのイメージが形成されていく。
このようにジャニーズとは、戦後日本にアメリカ文化が浸透していく過程そのものである。戦後日本は、アメリカからジャズやロック、ディスコやヒップホップなどが輸入されてきた。初代ジャニーズがジャズ、少年隊がディスコ……といった具合に、ジャニーズの音楽はいつでも、アメリカの音楽の紹介役としてあり続けた。もちろん、このこと自体、は日本のポピュラー音楽全般に言えることだ。しかし、日本の主権回復とともに来日し、その50年以上の活動歴のなかで、一貫して「Produced by Jonny H.Kitagawa」と冠し続けているジャニー喜多川の営みは、戦後日本における芸能文化を象徴しているように思える。ことさらにアメリカとの関係を意識することなく、音楽をはじめとするジャニーズのパフォーマンスを享受している現状それ自体が、戦後日本のありかたそのものではないか。音楽だけではない。例えば、ジャニーズにおける、個性を重んじ多様性を認める教育方針には、ジャニー喜多川の民主主義的な価値観があらわれている。拙共著『ジャニ研!』(原書房)の「まえがき」において、速水健朗は「戦後、アメリカが日本にもたらしたものは、まずは、「民主主義」。そして、「ジャニーズ」です」と書いている。