『Music Factory Tokyo』スペシャルインタビュー
ニラジ・カジャンチが明かす、日米エンジニアリングの違い「日本にいて英語が話せるほうが仕事に繋がると思った」
音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、現在、日本で最も活躍しているレコーディング&ミキシングエンジニアのひとりであるニラジ・カジャンチ(以下、ニラジ)のインタビュー記事を公開した。
同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたインタビューの前編を掲載。同記事では、マイケル・ジャクソン、マライア・キャリー、ボーイズ・Ⅱ・メンといった海外アーティストから、三浦大知、MAX、SKY-HI (AAA)などの国内アーティストまで、手掛けた作品は多岐にわたる彼が所有するスタジオ「NK SOUND TOKYO」にてインタビューを実施。前編では多くのアーティストに支持される彼がトップ・エンジニアに上り詰めるまでのキャリアや、音作りへのこだわり、そしてアメリカのシーンを熟知した視点から見る日本のシーンの展望まで、じっくりと語ってもらった。
「もしスタジオを買っちゃっていたら、たぶんいま、日本では仕事をしていない」
――出身はアメリカなんですよね。
ニラジ:ロスで生まれて、生まれて一ヶ月で神戸に引っ越しました。その後15歳まで神戸で育って、そのあと高校~大学とアメリカに戻って。仕事を始めたのもアメリカですね。
――家庭環境の中に、音楽はあったんですか?
ニラジ:まったくないですね。僕自身は音楽好きだったんだけど、親が音楽をすごく聴いていたというわけではない。この道を選んだきっかけは高校時代のインターンシップです。アメリカでは大体高校3年生くらいでインターンシップをするんですけど、たまたま僕が住んでいたところの近所に有名なプロデューサーが住んでいて、そのプロデューサーの下で三ヶ月、インターンをやることになったんです。その時に“これは本格的にやってみたいかも”と初めて思って。その後、プロデューサーに『オレが専門学校に電話してあげるから、お前はエンジニアになるべきだ』って言われました。
――そのプロデューサーがビリー・ジョエルやポール・マッカートニーなどを手がけたフィル・ラモーンですね。
ニラジ:そうです。ただ、インターン中は特別に何かのスキルを見せたわけではなくて、一番立場も下だし、掃除とかをずっとやっていただけでした。でも、人に対する僕のマナーとリスペクトの姿勢が、最近の若者にないものだとフィルが言ってくれて。バークリー音楽大学というボストンの大学に彼が電話してくれて、入学することになったんです。バークリーに行くまでの一年間は彼のアシスタントをやって、そこで初めてさまざまな技術を教えてもらいました。
――エンジニアやプロデューサーを志す人たちはもともとミュージシャンだった場合が多いですが、ニラジさんの場合は最初からエンジニア志望だったんですね。
ニラジ:はい、エンジニアを志したきっかけは本当にフィルに出会ったから、というだけなんです。もともと彼が何者かも僕は知らなくて、ネットでいろいろ調べて、フィルがすごい人すぎてびっくりしたくらいで(笑)。大学卒業後は、フィルの紹介でニューヨークの一番大きいスタジオである「ザ・ヒット・ファクトリー」に入り、アシスタントを始めました。日本だと、アシスタントエンジニアは10年くらい下積みをしないとエンジニアになれないのですが、アメリカはチャンスがあればいつでもエンジニア仕事ができます。そういう意味で、僕はすごくラッキーでした。21歳のときにエレファント・マンというレゲエのアーティストに、いきなり「エンジニアをやって欲しい」と頼まれて、これを受けたら、スタジオのマネージャーから『もうアシスタントに戻らなくていいよ』とも言ってもらえました。だから、結局アシスタントは半年しかやらずにエンジニアになっちゃったんですよ。その後はマイアミに行ったり、ラスベガスのホテル内に作った新しいスタジオの立ち上げに参加したりしました。僕はすぐ引っ越しちゃう(笑)。
――チャンスがあれば、すぐに引っ越すという。
ニラジ:そうそう。それに当時はR&BやHip-Hopが全盛で、その辺のアーティストは近くに固まって住んでいるんですよ。ニューヨークとマイアミとロサンゼルス、その3カ所にみんながいて。マイアミに引っ越したのも、当時すごく忙しかったプロデューサー……ティンバランドとスコット・ストーチ、ミッシー・エリオットというHip-Hop業界でトップの3人がマイアミに住んでいたからなんです。僕はマイアミで所属したスタジオを一ヶ月で辞めてフリーになって、そこでティンバランドともたくさん仕事をしました。その後、ラスベガスに引っ越してスタジオの立ち上げに参加して、ようやく大きな仕事も来るようになって自分の名前も知られ始めたときに、初めてHip-Hopではなくてロックの仕事をするんです。それがキラーズの『サムズ・タウン』というアルバムで、世界で600万枚くらい売れるヒットになり、ロックのエンジニアというイメージもついたんですよね。その後はロサンゼルスに引っ越してR&Bのレコーディングをたくさんしていたんですけど、その時あるスタジオが売りに出ていたので、そのスタジオを買おうと思ったんですよ。だけど同じタイミングでたまたま2ヶ月くらい日本に遊びに行く機会があって。日本では音楽業界に知り合いがまったくいなかったけど、その時はいろんな人と出会うことができたんです。そこで悩んだんですよね。LAでスタジオを買うか、日本に来るか。もしスタジオを買っちゃっていたら、たぶんいま、日本では仕事をしていないと思う。
「必要な人たちだけでいいものを作る、というスタイルにだんだん移行できた」
――なぜ、日本に来るという選択をしたんですか?
ニラジ:単純にアメリカにいて日本語を話せるよりも、日本にいて英語が話せるほうが仕事につながると思ったから。アメリカで結構大きな仕事もしたから、たぶん日本でも仕事ができるかなって。その3ヶ月後にはもう東京に引っ越しました(笑)。それが25歳の時ですね。
――日本の音楽シーンに触れて、どんな印象を持ちましたか?
ニラジ:とにかく当時の日本のシーンは活気がありましたね。僕がアメリカを出た時ってちょうどリーマン・ショックの直後で、アメリカのシーンはかなりまずい状況だったけど、日本はお金もめちゃくちゃに動いていて、こんな元気な国あるんだって感じでした。もちろんシーンのスケールは違うんだけどね。日本は日本とアジアに向けて音楽を作っていて、アメリカは世界に向けて音楽を作っているから、そこに対するカルチャーショックはありました。日本はお金が動いている国だけど、自分の世界がすごく小さくなってしまうような不安もあったりもして。それがアメリカと日本の一番の違いかな。
――日本で仕事を始めるきっかけは何だったんですか?
ニラジ:エイベックスの本社に、いきなり行ったんです。日本語がしゃべれないふりをして、デスクの女の子に『英語を話せる人に会いたい』って言ったの。デスクの子も頑張って英語で返してくれていたんだけど、僕も後に引けないから、まったく日本語を話さない(笑)。そうしたらrhythmzoneの英語を話せる人が出てきてくれたんです。その人に僕のアメリカでの仕事のことを5分くらい話したら、rhythmzoneの事務所に連れていってくれて、rhythmzoneのディレクターさんを30人くらい、全員紹介してくれたんですよね。それで最初に仕事を貰えたのが、EXILEのATSUSHIがプロデュースしているCOLOR(現DEEP)です。COLORがボーイズ・Ⅱ・メンとデュエットをやるから、ボーイズ・Ⅱ・メンが日本にくるときに手伝ってくれない?って言われて。それからエイベックスだけじゃなくて、ソニーやユニバーサルなどいろんな会社と仕事をするようになって、わりとすぐ忙しくなりましたね。
――やっぱり英語が話せることと、アメリカのシーンを熟知していることが大きかったんですね。
ニラジ:そうだと思います。ちょうど日本は宇多田ヒカルがきっかけで始まった、日本でインターナショナルスクールに行っていたコミュニティーのブームがあったんです。その人たちはみんなすごく感覚が似てるんですよね。そのコミュニティーでエンジニアをしていたのは僕しかいなかったから、アーティストたちが日本語でも英語でも話せて気楽に仕事ができるということもあって、指名をたくさんもらって。最初からオリコントップ5に入るような仕事をどんどん任せてもらいました。その頃に手掛けていたのがMay-Jや伊藤由奈、Crystal Kay、青山テルマなどのR&Bシンガー。日本でもそういうR&Bシーンが全盛だったんです。
――日本で仕事をするようになって、難しさを感じることはありましたか?
ニラジ:まず、レコーディング中の現場の違いですね。アメリカだとPro tools自体をオペレーションするのもエンジニアだし、ディレクションするのもエンジニアなので、シンガーとエンジニアが2人でやり取りをするというスタイルなんです。ところが日本は(スタジオに)レコード会社の担当もいて、ディレクターさんもいて、Pro toolsをオペレーションするアシスタントもいるので、エンジニアの立場がとても不明瞭になっていて。もともと全部僕のやっていた仕事なのに、いろいろな仕事をやってくれる人がたくさんいて、分業制なんですよね。だから逆にお互いの確認事項が多すぎて効率が悪い。全然スムーズじゃないんです。アメリカではレコード会社の人は外のラウンジで待っていて、レコーディングが終わったらチェックしにくるくらいなんだけど、日本だとずっとスタジオにいたりして。その辺に結構、違和感を感じましたね。
――日本独自のスタイルにはどう対応していったんですか?
ニラジ:最初のころは僕も日本でのキャリアがなかったから、彼らのやり方に合わせようとしていたんですけど、だんだん変えていきました。2年くらいかかりましたけどね。それからはシンガーたちにディレクションするのも僕だし、Pro toolsのオペレーションをするのも僕だし、最低限、必要な人たちだけでいいものを作る、っていうスタイルにだんだん移行できたんです。実際、録り終わったあとにどう聞こえるか、っていうのはエンジニアにしかわからないところだから、そこは任せて欲しいという気持ちもあります。今一緒に仕事をしているアーティストたちは、ほぼ僕がすべてやるスタイルが多いですね。最近はスタジオにくる段階で最小限の人数で来る人たちが増えました(笑)。アーティスト、マネージャーさん、レコード会社の担当さんだけという。すごくやりやすくなりましたよ。