クレッガー版『バイオハザード』が成し遂げた「再翻訳」の意味 ビデオゲームの“原罪”をホラーで伝えるということ
※本記事には映画『バイオハザード』に関する軽度のネタバレが含まれます。
映画をゲームにしたゲーム
1998年7月 ラクーン森林地帯。霧のかかった草地で屈強な男女が異形たちに襲われている。血と死体の断片的なフラッシュバック。低い声のナレーションは味方から置き去りされたかれらがある館に逃げこんだことを告げる。すると、画面に「CAST」のいかめしい文字が躍り、特殊部隊員であるかれらひとりひとりの紹介が始まる。
いかにも90年代の安手のアクション映画のノリだ。
だが、これは映画作品のオープニングではない。ミラ・ジョヴォヴィッチもオースティン・エイブラムスも関係がない。これは、1996年にカプコンからリリースされたPlayStation用ソフト『バイオハザード』のオープニングである。
いうまでもなく、ここには当時のアメリカ映画的なイメージが刻印されており、映画の文脈にのっとってゲームが展開されることが宣言されている。そもそもがゾンビなのだ。映画によって生み出され、培養されてきた、純映画的なホラースターだ。
「ゲームの映画化」と口にするとき、特にビデオゲーム的な感覚を取り込んだ映像について語るときに、わたしたちが忘れがちなことがある。それは、ある種のゲーム作品やジャンルは映画の強い影響を受けて生まれてきた事実だ。ホラーという極めて映画的なジャンルを、ゾンビという極めて映画的な道具立てで語ろうとした初代『バイオハザード』は、その典型ですらある。
けれども、映画はそのままゲームにはならず、ゲームもそのまま映画をやれはしない。越境したメディアは適応なしには生き残れないのだ。
『バイオハザード』の映画化作品を語りたいならまず、『バイオハザード』が映画からなにをゲームとして適応させたのかを見る必要がある。それは当然、今回取り上げるザック・クレッガー版『バイオハザード』がゲームから輸入して適応させた映画として見るときにも関係してくるのだから。
だから、そう。
サバイバルホラーの話から始めなければならない。
サバイバルホラーとはなにか
クレッガー版『バイオ』の主人公ブライアン(オースティン・エイブラムス)はいかにも気弱で情けない人物なのだけれど、同時に“たくましいゲームプレイヤー”でもある。
配達の仕事で生計を立てているブライアンは、ある冬の晩に病院で特別な荷物を託されてラクーン・シティへと向かう。そこで彼はほとんど身一つでゾンビ騒動の混沌にまきこまれていくのだが、銃などの武器をめざとく見つけだしては拾いあげ、常に残弾数を数えつつ、ゾンビや鍵のかかった錠前に撃ち込む。ときおりカメラへと乗りうつる彼の視線は、曲がり角の向こうや一寸先の闇に危険なものの存在を感じつつも、それに近づかねば先へと進めないプレッシャーをおぼえる。
そうして、悲しいほど貧しい知恵と、泣きたくなるほど乏しい運をたのみに、ゾンビ禍の地獄を乗り越えていこうとしていく。
監督のクレッガーは『SYFY Wire』誌のインタビューでこう語っている。
「あのゲーム(『バイオハザード』シリーズ)は、ほんとうに恐怖を煽るのがうまいんだ。大迫力のアクション満載ってわけじゃない。むしろ、そういうアドレナリンの出まくる瞬間のはざまにある状況を作り上げることに力を注いでいるんだ。おぞましい場所を忍び足で進んで、手元には弾丸が2発しかないような状況をね。恐ろしいことが起きるとわかっていて、それが起きてほしくないと願っているのに、引き返すこともできない。それこそが、僕にとってのサバイバルホラーのキモなんだ」
クレッガーが『バイオハザード』シリーズに見いだし、映画に持ち込んだこのエッセンスは、そのままサバイバルホラーの簡要な定義といってもいい。この名称は『バイオハザード』のオリジネイターである三上真司が考案し、初代『バイオハザード』のパッケージにも宣伝文句として堂々と打たれたうえ、ゲーム中でもセーブデータをロードするたびに「サバイバルホラーの世界にお帰りなさい!」と告げられる。
”You have once again entered the world of survival horror. Good Luck!”/「サバイバルホラーの世界にお帰りなさい。幸運を祈ります!」
三上は初代『バイオハザード』リリース当初から、映画から強い影響を受けた事実を隠さなかった。同時に、彼自身学生時代は熱心なホラー映画ファンであったがゆえに、ゲームに映画の手法をそのまま持ち込めないことも痛感していた。
雑誌『ゲーム批評』(1996年6月号/Vol.9)のインタビューで三上は映画とゲームの違いについて熱心に語っている。
「ゲームというのは映画みたいに、こういうシーンを連続で見せてユーザーの感情をコントロールしたりとかは出来ないんで。『こっち行って一番怖いシーンになるんやで』と言っても、無視されるし、どこ行くか予測がつかない。…(中略)…映画や小説は作品が最初に完成している。それに対して、ゲームというのはユーザーの手が加わることによって、初めて作品として完成する。そこの差を大きく出していかなきゃいけないのかなと」
ビデオゲームと映画の違いは、プレイヤーの入力に対して反応があること、すなわち「インタラクティビティ」だとよくいわれるところだ。では、そのインタラクティビティとはなにかといえば、哲学者のアーロン・スマッツによれば、「入力に対して適度に制御可能かつ適度に予測不能な応答が返ってくる」ことだという。
適度に制御可能かつ、適度に予測不能。それはまさにホラーに求められるストーリーテリングでもある。この闇の先に「なにかおそろしいもの」が待ち受けている。その「なにか」の正体わからない。この不安にさいなまされつつも、どこか惹かれてしまう。
いっぽうで、映画とゲームで異なる部分もインタラクティビティと関係している。映画の演出においては不吉さや不穏さにおびえている観客を強制的にその先の場面へと運ぶのに対し、ゲームではおなじ予感にふるえているプレイヤーがみずからすすんでボタンを押し、一歩足を踏み出さねばならない。映画もゲームもプレッシャーを観客に与えるという点ではかわらないが、そのプレッシャーの質と強制力が違う。
進みたくないのに、自分の意志で進まなければならない、というネガティブな進行こそがビデオゲーム固有のホラー感覚であるわけだ。サバイバルホラーはそうしたゲームのホラー体験を凝縮したジャンルともいえる。
たとえば、初代『バイオハザード』では、定点カメラ的な三人称視点が場所ごとに位置を切り替える形で展開される。ポイントごとに絶妙に死角になっていたり、(操作キャラかは確実に見えているはずなのに)視界が遮られる形になったりして、プレイヤーはストレスに苛まれることとなる。逆に、カメラポジションによってはプレイヤーは操作キャラに先んじてゾンビを視認できるが、それでも進まざるをえない状況も生じる。「見えないことの怖さ」と「見えることのイヤさ」があるわけだ。
クレッガーの『バイオ』シリーズベストはその定点カメラ的三人称からTPS的な視点に移行した『4』だったという。クレッガー版『バイオハザード』でも冒頭をはじめとして何ヶ所かで印象的に得られる肩をなめるような追尾カメラはまさしく、『4』以降のオマージュなわけだけれど、サバイバルホラーはカメラのアングルを変えても、その教義までは変えなかった。よりアクション性やモダンな映画的演出を強めながらも、リソースの管理は依然として厳しく、文字通り「サバイバル」と「ホラー」をアイデンティティとして保っている。
映画からゲームになったゲームを映画にする
ホラーからサバイバルホラーへ、映画からゲームへと翻訳された恐怖をさらに映画に再翻訳するという使命を託された……というか、みずから勝手に背負ったクレッガーは、知ってか知らずか1996年の三上真司と似たような立場に置かれた。映画とゲームのメディアの違いを意識したうえで、あのサバイバルホラー的なネガティブな圧をスクリーンに再現したのだ。
どうやって? 受動的なメディアである映画には、能動的なビデオゲームの体験を単純に移植することはできない。しかし、それはオーディエンスにとっての話だ。翻訳であるというなら、通訳者をおけばよいのでは?
映画においてサバイバルホラーの体験を伝える通訳者、それが主人公のブライアンだ。
彼は、映画を通してつねになにかしらのストレスに晒されている。開幕時点で恋人からの電話越しに妊娠を告げられ、その事実に向き合うことを拒みつつ、「だれかの命のかかった重要な仕事」という言い訳をたてに、病院で託された配達業へと逃げる。それから「電話」はブライアンが目をそらし続ける恋人と赤ん坊の象徴として、影のように彼につきまといつづける。
ゾンビ禍に巻き込まれてからも、「不本意ながら」といった顔でブライアンはサバイバルしつづける。進まなければ、死ぬしかないからだ。
そう、別に彼はやりたくてやっているわけではない。それでも、なぜかやらなければいけない。
そうした奇妙な強制力がもっともよく表れているのは、ひょんなことから同行するはめになった高慢なアンブレラ社員(ポール・ウォルター・ハウザー)から、危険そうな場所へ向かうようけしかけられるくだりだ。冷静に考えれば、別に直接の上司でもなんでもないのだからそんな命令を聞く義理はないのだが、ブライアンはブツクサいいながらも従ってしまう。
なぜ流されてしまうのか。彼がゲームのプレイヤーだからだ。現実のイヤなことからの逃避先としてゲームを選び、そのなかではなぜか義務でもないのに気の進まない行為もやってしまう。ダメなわたしたちの映し身だ。たいしてプレイングのうまくないところまでそっくり。彼は観客にとって、没入の対象ではなく、共感の対象といえる。
これは2020年代だからこそ取りうる手管でもある。ブライアンをゲームプレイヤーとして読み替えられるのは、他人のプレイを客観的に観察できるゲーム実況文化の浸透を経たからこそでもあって、本邦でも映画版『8番出口』などはそうしたゲームの現代的な受容文化を基礎とした作品だった(※1)。
※1……そういうわけなので、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演シリーズを撮ったポール・W・S・アンダーソンは、それなりに真摯だったことを言い添えておかねばならないだろう。彼がジョージ・A・ロメロのあとを受けて映画化企画を受けた時点では、『バイオハザード』とは謎解き中心のアドベンチャーで、映画的に『映えない』ゲームだったことを思い出すべきだ。