『エルデンリング』などの物語や世界観を醸し出す名文の数々。フロム・ソフトウェアのフレーバーテキストは、なぜ優れているのか?

 発売から3カ月を待たずして、フロム・ソフトウェアの『エルデンリング』は世界で1300万本以上を売り上げた。同社の過去作と比べると、2016年発売の『ダークソウル3』が約1000万本(2020年5月時点)、2019年のGame of the Yearに選ばれた『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』は500万本(2020年7月時点)。いずれもミリオンを大きく超えているが、売上とその速度という点で、『エルデンリング』は規格外だ。

ELDEN RING 発売ロンチトレーラー【2022.02】

 その1300万本の内、約100万本は日本国内の売り上げというのだから驚いた。プレイ体験を重視し、多くを語らない硬派な作風や、溜めや構えを交えたリアルで重い攻撃、美しいグラフィックに作り込まれた演出など、フロム・ソフトウェアの作品が持つ魅力は確かに多い。だが、コアゲーマー御用達ともいえる難しさもあってか、これまでのタイトルの多くは、国内よりも海外のほうが受けはよかったし、知名度もあった。人によっては、フロム・ソフトウェアがそもそも日本の会社であることを知らないかもしれない。

 日本でもフロム・ソフトウェアのゲームが広く認知されるにあたり、個人的に知ってほしいことがある。フレーバーテキストだ。『ダークソウル』シリーズや『ブラッドボーン』、そして『エルデンリング』などのフレーバーテキストは、現代表取締役である宮崎英高氏が執筆・監修を行っている。フロム・ソフトウェア作品の考察に耽る人を指す「フロム脳」という言葉があるのは、考察が盛んである以前に、その思考の基となるフレーバーテキストが巧いからだ。

 本稿では、『エルデンリング』に出てくるフレーバーテキストをふたつ取り上げ、フロム・ソフトウェアのテキストがなぜ優れているのかを、自分なりの考察を交えて書いていく。

※本記事は『エルデンリング』のネタバレを含みます

無能がためにホスロー家はまとまった

 明治生まれの文豪である谷崎潤一郎は、自著の『文章読本』で日本語に対する自身の見解を述べている。良い日本語を書くための秘訣のなかに、「饒舌を慎むこと」があると前置きしたうえで、彼は以下のように記した。

「我われは、生な現実をそのまま語ることを卑しむ風があり、言語とそれが表現する事柄との間に薄紙一重の隔たりがあるのを、品がよいと感ずる国民なのであります」
(『文章読本』200ページ目より※一部表現を修正)

 続いて、「あまりはっきりさせようとせぬこと」、「意味のつながりに間隙を置くこと」といった主張も書かれている。はっきりさせず、あえてぼかして書くことが重要らしい。そうした視点で見てみると、フロム・ソフトウェアのフレーバーテキストは、まさにその通りになっている。

 上記の画像にあるテキストは、『エルデンリング』において「火山館」という場所で受けられる依頼のひとつ、ユーノ・ホスローの殺害をこなすと手に入る装備について書かれている。弟のディアロス・ホスローから入手できる装備と対になっており、弟の装備には、ホスロー家の家訓である「血潮で物語る」ことを体現していた兄に憧れていたと書かれている。一方で、こちらでは弟の無能ぶりに安心していたことがうかがえる。

 本作では兄は標的となったときにしか登場しないが、弟は物語の序盤から会うことができる。従者を殺した火山館の連中に復讐するはずが、英雄になれるという誘いに舞い上がり、仇の仲間になってしまう。ほかのフレーバーテキストによれば、同じように火山館の誘いを受けた際、兄は静かに断っている。テキストの書かれ方はもちろん、性格も対照的だ。

 だが、ディアロスも兄のような英雄であったなら、家内の者たちは弟を担ぎ出し、兄を擁する勢力に対して、それこそ血で血を洗うような抗争を起こしたかもしれない。あるいは、ディアロス自身が兄に反抗することもありうる。逆にユーノがディアロスを妬む可能性もあるだろう。もし逆だったら、嫡男であろうユーノが弟に劣っているということで、関係はこじれていたかもしれない。いずれにせよ、いまのホスロー家があるのは、弟が無能だったおかげだ。無能だからこそ、政治や権力とも無縁で、兄弟の絆は保たれていた。

 「なぜなら」とでも付け足して、上記の段落のような内容を補足したくなるが、そうするとホスロー家の詳細は当然として、歴史や周囲との関わりまで言及せざるを得ない。そうなれば、新たな個人や家系も判明するだろう。一方で、明かされるほどに考察の余地は狭まり、テキストは書かれていること以外の意味を持たなくなる。そして、谷崎潤一郎が言う「生な現実をそのまま語る」。そうなれば、フレーバーテキストはふつうのテキストになる。

 フロム・ソフトウェアがどこまで設定を考えているかはわからない。ただ、彼らが重視しているのはプレイヤーの体験だ。「愛することを許された」で締めることは、作品を遊ぶ人が道中で得た体験や解釈に作品を託すことであり、フレーバーテキストの「フレーバー」を匂わせるためであり、同時に、日本語の力も引き出している。

 プレイ体験やテンポを重視した結果、物語や世界観などの語りとして文章であるフレーバーテキストを活用したという経緯もあるのだろうが、文章読本における谷崎潤一郎の主張と、今回取り上げたフレーバーテキストを照らし合わせると、文豪が理想とした日本語の書き方のひとつを、宮崎氏は実践していることになる。

 というより、曖昧なことに美しさを見出す日本語自体が、フレーバーテキストのようなものなのかもしれない。

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