『バイオハザード』は“幸福な堕落=落下”を描く成長物語 数々のホラーの系譜から読み解く
ザック・クレッガー監督の『バイオハザード』は、主人公ブライアン(オースティン・エイブラムス)の成長物語である。こう書くと、結末を知る人は違和感を覚えるだろうか。それにもかかわらず、やはり成長物語なのである。それはいったいどういう意味か。
※本記事では、『バイオハザード』のストーリーの核心についての記述があります。
配達員のブライアンはさえない男だ。彼はラクーンシティの病院まで重要な荷物を届けることになる。雪の降る道を蛇行していた彼の車は飛びだしてきた老婆を轢いてしまう。これは実写映画シリーズ7作目『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』(2021年)の冒頭で、雨の降る道を走るトレーラーがゾンビになった女を轢いてしまう(だが女は消えてしまう)シーンの再現である。
後ほど鉢合わせた警察の車に老婆を乗せ、ブライアンは自分の車を運転し病院まで先導されるが、パトカーはすぐに「横転」する。老婆はゾンビだったのだ。ここから彼の「転落」がはじまる。ラクーンシティはゾンビに占拠されており、彼が運ばされているものはワクチンの材料だったのである。90分の前代未聞の体験がブライアンと観客を待っている。
ゲームとホラーの「人称」を操る
ゲーム版『バイオハザード』の大ファンだったクレッガーが、ゲーム的映像世界の映画を仕上げたことについては、すでに多くの指摘がある。映画進行中にブライアンがどのチョイスを選択するか、観客にも一瞬考える時間を与える演出がなされている。ブライアンの使う武器もレベルアップする。拳銃からショットガン、そして、自動小銃へ。彼はショットガンの銃弾がどこにあるかまで探さなければならないし、弾薬の残りもチェックする。あるいは、携帯で照らして闇の迷路を進んでゆく。きわめてゲーム的だ。
PS版『バイオハザード』が完成した1996年。ディレクター・三上真司は家庭用ゲーム機で3DCGを使って、「一人称視点」の画期的なホラーゲームの制作をめざしていた。だが、スペックの問題もあり断念する。しかしながら、結果として、カメラを定点に固定し、主人公を映す定点カメラの「三人称視点」で『バイオハザード』が誕生したのである。本作でも、ブライアンの姿を後ろから撮影しながらも、彼の視点にカメラが共振し、キャラクターと観客の視覚的なつながりをつくりだす「三人称視点」が絶妙に使われる。
また、この映画にはそれだけではなく、雪原で拳銃の銃身を画面に映し、老婆のゾンビの顔を撃ち抜くシーンにはじまり、ゲームのFPS(ファースト・パーソン・シューティング)の「一人称視点」も複数使われている。たとえばゲーム版『バイオハザード7』(2017年)はFPSで銃撃の快感を楽しめ、全編一人称のFPS画面で制作されたゲーム的映画に『ハードコア』(2015年)があるが、クレッガー版『バイオハザード』は「一人称視点」と「三人称視点」をうまく組み合わせながら、観客をゲーム的な映像に参加している気にさせるのである。
クレッガーの過去作を振り返れば、『バーバリアン』(2022年)は自動車産業の衰退によって廃墟になったデトロイトの郊外住宅地を舞台にしたホラーだった。唯一まともに残っている住宅の地下では、謎の女が人々を赤ん坊として監禁している(地下は深層心理の隠喩だが、おかしい(可笑しい)母性愛に満ちた女が潜んでいて、人間の深層にすり込まれた母性愛のエグさを暴きだしている)。この映画でも、彼は監禁された人物が地下の迷路を探るのにうまくゲーム的「一人称視点」と「三人称視点」を使っていた。
ホラー映画と「人称」をめぐる問題は奥深い。たとえば、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』(1978年)。最初のアパート襲撃シーンでは、ゾンビを射殺するSWATの銃口が、カメラつまり観客に向けられ、その後も同じアングルが存在している。英語のshootは「銃を撃つ」と「撮影する」の二つの意味を備えている。銃による「発砲(シュート)」の暴力をカメラの「撮影(シュート)」で真正面から捉え返すのである。また、ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2007年)はミイラ映画を撮影する一行がゾンビに襲われるPOV映画だ。Shoot the Dead(ゾンビを撃て/撮影しろ)のキャッチコピーがポスターにあり、手持ちカメラが銃のようにゾンビに向けられている。