キム・ギドク監督の死から考えなければいけないこと これからの映画界をより良いものにするために
私も含め、キム・ギドク作品を追いかけていた多くの観客や映画祭関係者は、このようなことが裏で行われていたことは、事態が明るみに出るまで知ることができなかった。彼の作品で描かれる暴力やエキセントリックな演出は、彼自身の欲望やコンプレックスなどが根底にあることは理解できていても、あえてそれを描くことで芸術として昇華したのだと思っていたところがある。だが実際には、その過程で欲望にまかせた暴力行為に及んでいたことが分かってきたのである。
たしかにキム・ギドク監督には類まれな表現力があり、いまでも、その作品にはある種の芸術性が存在しているように思える。だが、同時に彼はそんな芸術や映画を利用して、自分の欲望にまかせ暴行をはたらいたのだ。映画を愛する者たちは、そんな彼の“自由”を守るのでなく、この行為が映画や芸術に対する裏切りだと認識するべきなのではないか。
われわれがまず考えなければならないのは、映画業界を含めた社会のなかで、このような被害者が今後出ないようにすることであるはずだ。そのためには、事なかれ主義に徹して問題を覆い隠すのではなく、業界の問題をつまびらかにして、検証し直すことが必要だ。映画の歴史のなかで断罪すべきケースがあまりにも膨大な数にのぼるというなら、現在の問題を中心に優先されるべきケースから順にじっくりと考えていけばいい。
キム・ギドク監督という存在を考えるとき、このような問題が発覚した以上、それを無視しながら評価することは、もはや困難である。少なくともいまは、彼の行動をきっかけに、社会を別の方向へ変えていくことが最もポジティブな見方ではないだろうか。死去によって、なあなあに終わらせるのではなく、きっちりと問題を糾弾する姿勢が必要なのではないのか。それが、大きな意味で未来の被害を防ぐことにつながるはずだ。
キム・ギドク監督が持っていたようなきらめく才能を持った人々が、これからの時代、不当な暴力によって傷つけられず、同時によこしまな行為をすることが難しい状態に変えていくことが、これからの映画界をより良いものにし、良いかたちで存続していく鍵になるのではないだろうか。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト