トッド・ヘインズは少数者の孤独な魂に寄り添う 『ワンダーストラック』が示す数奇なつながり

 いまアメリカ映画で最も注目されているトピックが「多様性」だ。『ブラックパンサー』が記録的な興行成績を収め、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー作品賞に輝くなど、マイノリティー(社会的な少数者)の物語を描いた映画が高い評価を受けている。トッド・ヘインズは、そんな現在の流れが発生する以前から、そのような映画を独自に撮っていた映画監督だ。異なる人種間や同性同士の恋愛や、多数派と違った趣向を持った人間が、保守的な時代や環境のなかで阻害され弾圧される姿を描き、社会をさまよう孤独な魂に寄り添ってきた。

 本作『ワンダーストラック』で描かれるのも、そんな孤独な魂を持った、少女と少年二人の物語である。舞台は1927年と1977年のニューヨーク。彼らはそれぞれに大事なものを捜すために、違う時代、同じ街を独りきりでさまよう。この交互に描かれていく二つの物語に何のつながりがあるのかを提示しないまま、映画は進行し、観客をも作品世界に迷わせていく。ここでは、そんな物語が示すものを検証し、この映画が描いたものは何だったのかを、後半の展開への言及を避けながら、本質的な深いところまで解説していきたい。

 1977年のミズーリ州。母親を交通事故で亡くしたばかりで、おばの家に住んでいた12歳の少年ベンは、忍び込んだ母親の部屋からニューヨーク自然史博物館のことが書かれた古い本『ワンダーストラック』を発見する。そこには博物館が生まれるのはなぜか、なぜ人は物を収集するのかということが記されていた。本にはさまっていたニューヨークの書店のしおりにメッセージがあり、ベンはそれが行方不明の父親の手がかりだと考える。

 そのとき突然、空から落ちてきた雷がベンを襲い、彼は病院に運ばれてしまう。驚きの展開である。じつはここが『ワンダーストラック』のテーマを象徴する場面なのだが、それについては後で述べていきたい。目が覚めたベンは、自分が聴覚を失っていることに気づく。今まで様々な音が響いていた世界は静寂に包まれ、自分の声さえ自分で聴くことができなくなってしまった。不安と失意のなかで、ベンが頼れるものは行方不明の父親だけだった。彼は病院を脱走し、独りきりでバスに乗り込んでニューヨークの街に降り立った。

 書店を見つけられず途方に暮れていたベンは、同じ年頃の少年ジェイミーに声を掛けられ、ニューヨーク自然史博物館へとたどり着く。ジェイミーの父親は博物館で働いており、いつも博物館の中で過ごしているジェイミーにとって、館内はまるで自分の家の庭のようだ。ベンは館内にあるジェイミーの「秘密の場所」に案内され、そこで一晩寝食を共にすることになる。二人は筆談や身振り手振りで会話をすることによって友情を深めていくのだ。

 本作は『ヒューゴの不思議な発明』の原作者ブライアン・セルズニックによる小説を原作とし、さらにセルズニック自身が脚本も書いている。『ヒューゴの不思議な発明』にも、このような秘密の場所が登場したが、ここに原作者の独特なフェティッシュが垣間見える。私自身も、子どもの頃によく実家の物置や収納スペースに隠れ、本を読んだり絵を描いたりすることに喜びを感じていたことを覚えている。そんな行為を見つけられると、今は亡き祖母から「かげ猫みたいに!」と叱責されたものだが、いまだに「かげ猫」とは何のことだったのか分からない。

 亡くなった母親の部屋や博物館の隠れ部屋など、本作で描かれた子どもだけの秘密の空間というのは、大人からの干渉の外で、自分だけの世界に没入するための舞台装置としての意味がある。そこで味わうものは、人間にとってはじめての濃密な個人的体験になり得る。

 幼い頃、過剰投薬によって実際に聴覚を失ったという子役ミリセント・シモンズが演じる、生まれながら耳の聞こえない少女ローズの物語は、そこから50年前の、1927年のニュージャージー州から始まる。彼女は雑誌や新聞などを切り抜いて、建物の模型を作るという、一風変わった趣味を持っていた。

 そんな彼女のイマジネーションはどこからやって来るのか。それは字幕付きのサイレント映画である。劇中で彼女が一人で訪れる劇場で上映されていた作品『嵐の娘』では、凄まじい嵐によって家が倒壊する、おそらくミニチュアを利用した視覚効果シーンが登場する。ローズの創造力は、映画を観るほどに育ち、現実を模した虚構の世界を作り上げることに喜びを感じるようになっていったのだった。そしてそれは、彼女の一生を決定づけるものともなっていく。だがその頃映画は、現在のように音声が付いた「トーキー」方式に切り代わりつつあった。耳の聞こえない者にとって、それは劇場から閉め出されることにも近いことだったことは、本作が指摘する映画史にとっての一つの重要な事実である。

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