東野圭吾はいかにして国民的作家へ? 『秘密』と〈探偵ガリレオ〉の舞台裏を担当編集者が語る

 国民的作家・東野圭吾を初期から支え、代表作〈探偵ガリレオ〉シリーズを立ち上げた、文藝春秋の編集者・花田朋子。名作『秘密』の誕生秘話から湯川学の進化、そして凄絶な執筆姿勢まで、一番近くでその才能を見つめ続けてきた編集者が東野との仕事を語る。(編集部)

名作『秘密』の舞台裏

花田朋子氏

——花田さんは文藝春秋では何代目の東野さんの担当なんですか。

花田朋子(以下、花田):実は私が初代なんです。初めてお会いしたのが東野さんがデビューして10年ぐらい経ったころ、1995年です。『同級生』(講談社文庫)という作品を読んで、お願いに行ったのかな。私はそのころ「別冊文藝春秋」という雑誌にいたんですが、まずは書き下ろしで、ということで後に『秘密』(文春文庫)になる長篇をお願いしました。ただ、そのころ東野さんは『天空の蜂』(講談社文庫)を準備されていた時期で、書き下ろしだと少し先になってしまうということで、長編とは別に「オール讀物」に短篇をお願いしたいと。それで1996年11月号に書いていただいたのが、〈探偵ガリレオ〉シリーズの第一作「燃える」です。

——私、東野さんと最初にお話ししたのが1991年頃なんですけど「アイデアは売るほどあるけど、僕の本売れない」って自虐ギャグを必ず言われるんですよ。〈探偵ガリレオ〉の短篇を初めて読んだときにそれを思い出しました。アイデアを売らなくてよかった、すごいじゃないか。『同級生』を読んでから依頼に行かれたということは、同じような傾向の作品をお願いしたかったんですか。

花田:特に傾向を決めていたわけではないですけど、東野さんにはどんな作品が好きかは聞かれました。『同級生』と『虹を操る少年』(講談社文庫)を挙げた記憶があります。

——ファンタジー設定の作品ですね。そういうつながりで『秘密』をお願いしたわけではないんですか。

花田:はい、東野さんから「昔、こういう話を短篇で書いたんだけど、長篇にしたいと思っていて」と伺ったんです。「娘と母親が一緒に事故に遭って、母親の魂が娘に移って、夫が右往左往する話」みたいなざっくりした説明だったんですけど、「ぜひそれを」と。その場で決まったんです。

——短篇はどちらかというとドタバタ喜劇に近い感じですよね。

花田:説明を聞いた後で、元になった短編を読みましたが、そうですよね。ただ、私はジャック・フィニイの「愛の手紙」(『ゲイルズバーグの春を愛す』ハヤカワ文庫NV所収)がすごく好きで、ああいう風に感情を揺さぶられるような作品になるんじゃないかと思いました。

——結果としては、東野作品の一画を占めることになるファンタジーの先駆的作品となり、また脳科学や意識の問題といった作家の関心事が反映された、非常に東野さんらしい作品になりましたね。最初の読者として原稿を最初に読むわけですけど、どんな印象を受けられましたか。

花田:最初は笑いながら拝読していたのですが、途中からは、とにかく切ない話だな、と感じました。そのころ私はまだ20代ですから、成長していく娘の藻奈美の方に親近感があったんです。でもそれから十数年経って読み返してみると、今度は母親の直子や父親の平介の気持ちに寄り添えるようになりましたね。

——これはネタばらしになっちゃうので曖昧に書きますけど、『秘密』は物語の謎を、判断を読者に任せるような形で書いている箇所があるじゃないですか。あれは初稿の段階からあったんですか。

花田:ちょうど本が刊行される頃に私が産休に入ったもので、男性の編集者に手伝ってもらったんです。その方と私で読み方が違ったんですよ。私は自分の解釈が東野さんの意図に近いと思っているんですが、別に違う読み方があること自体は構わないと思うんですね。ただ、二人の解釈の違いを聞いた東野さんはもう少しわかりやすくした方がいいかなと思われて、ちょっとした伏線的なエピソードを付け加えられました。

——『秘密』は東野作品としては初と言っていいくらいの爆発的なベストセラーになりました。売れ行きを見て編集者としてはどう感じられましたか。

花田:あんな経験は編集者としてもなかなかないですね。文学賞をもらったから売れる、ということはありますが、『秘密』の場合、特に大きな理由があって売れ始めたわけではないですから。どんどん増刷がかかっていくんです。本当に毎週増刷のご連絡をしていた記憶があります。

『探偵ガリレオ』誕生秘話

東野圭吾『片想い』、『探偵ガリレオ』(いずれも文藝春秋)

——東野さんが国民的作家となった起点って、1998年の『秘密』と翌年の『白夜行』(集英社文庫)からだと思うんです。『探偵ガリレオ』は、その後の二次的な波ですよね。

花田:そうなんですよね。『秘密』は大ヒットして、すぐに映像化の話が来ました。東野さんは「映像化は今までもいろいろ話が来たけど、99パーセント潰れますね」という感じで最後まで実現を疑っていました(笑)。『秘密』と同年、少し前に『探偵ガリレオ』(文春文庫)の第一短篇集が出ているんですけど、増刷の速度は『秘密』の方が上だったんです。だから文庫化するときは、本当は『探偵ガリレオ』が先なんですけど、いちばんの話題作を文春文庫の1冊目にしようということになって『秘密』が先に出たんですね。もちろん『探偵ガリレオ』も第二短篇集の『予知夢』(文春文庫)も東野さんらしい作品なんですけど、シリーズが大きく知られるようになったのは2005年の『容疑者χの献身』(文春文庫)が出てからだった、という印象ですね。

——シリーズ第一作の短篇「燃える」は先ほども話に出たように1996年発表なわけですけど、当時の東野さんは本格ミステリーへの鎮魂歌としても読める『名探偵の掟』(講談社文庫)を1996年に出された後で、自分はトリックとか推理とかで売る路線の作家じゃない、というような自認があったと思うんです。その中で『探偵ガリレオ』のシリーズを始められたというのは、どういうことがきっかけだったんでしょうか。

花田:東野さんは理系出身でいらしたので、科学トリックのアイデアはいくつかあるとおっしゃっていたんです。ただ、誰にも検証ができないような物理現象で種明かしをされても、読者には面白くないんじゃないかと。そういう危惧がご本人にはあったと思うんですね。本ができたとき東野さんが「自分の考える新本格ミステリーというのはこういうものなんですよね」っておっしゃったので、帯にも小さく「これこそ、真の新本格ミステリー」って入れてあります。

——当時、島田荘司さんが、本格ミステリーは最先端の自然科学や社会科学の見識を取り入れるべきだとおっしゃっていました。期せずして、それと同期した形になりましたね。

花田:こういうものを書ける作家は当時、東野さんしかいらっしゃらなかったと思うんです。付け焼刃で調べても書けないでしょうし、基礎知識がご本人にあって、最先端のことも自力で咀嚼でき、それをミステリーに落とし込めるのは、「書けるとしたら自分しかいない」という気持ちもおありだったのではないかと思います。ものづくりにも詳しくて、ご実家が時計職人ということもあって細かいものを組み立てる技術的なことも得意でした。「燃える」が掲載されたら当時の編集長が大変に気に入りまして、ぜひ連作にしてもらいたいと。それを申し上げたら、結構続けざまに書いてくださったんですよ。4ヶ月に1本くらいのペースでしたから。私は書籍編集者としてはまだ新人で「オール讀物」の連載についての発言権はなかったので、そうやって掲載されてスムースに本になっていくのはありがたかったですね(笑)。

湯川学の変化と『容疑者χの献身』

——湯川学のキャラクターは、どんなふうに出てきたんですか。

花田:『探偵ガリレオ』では、湯川がどんな人間かがわかる描写はそんなになくて、ちょっと変わり者で、動機にはあまり興味がなくて、謎を解き明かすためだけに存在している人物ですよね。「この作品を成立させるために一番最適な人間はどういう人か」というところから創られたキャラクターだったんだと思います。

——だから探偵という記号なんですよね、最初は。それが『容疑者χの献身』で人間味が出てきた。短篇と長篇では書き方が違うのは当然ですけど、やはり『探偵ガリレオ』『予知夢』という連作形式ではずっと続けるのは難しかったんでしょうね。

花田:短篇だと「一つの謎があって解き明かす」という構造だけで行けるんですけど、それを物語に落とし込んでいくのには必然性が必要なので、トリックだけで続けていくのはここで一回終わりかなと。短篇連作はちょっと難しいかも、と言われました。それまで、短篇は〈探偵ガリレオ〉、長篇は『秘密』とその次の『片想い』というように切り分けてお願いしていたんですけど、湯川学で長篇を書いていただきたい、ということをこちらの要望としてお願いしまして。それで『容疑者χの献身』が始まりました。

——それまで東野さんは、シリーズキャラクターを使って書くことに熱心じゃなかったと思うんです。『浪花少年探偵団』(講談社文庫)という連作はありますけど、二冊で終わってます。加賀恭一郎刑事もいますが、あれは必要に応じて出すキャラクターでしたから。〈探偵ガリレオ〉で、初めてシリーズキャラクターを使って書いてもらいたい、という要望に応えられたんだと思うんですよ。

花田:そうだったらちょっと嬉しいなって気がします。『容疑者χの献身』は、まず天才科学者である湯川がいるから、対峙する相手を天才数学者にする、という小説でした。あそこから〈探偵ガリレオ〉は湯川のキャラクターを前提とするドラマ作りになっていきました。

——『容疑者χの献身』を初めて読んだとき、湯川が大学時代の友人である石神に対して親近感を示して、アパートまで訪ねていくというのにびっくりした記憶があります。しかも彼のそういう人間らしい一面が、ちゃんとミステリーとしての幕引きにも使われているんですよね。上手いなと感心しました。あの作品は「オール讀物」の連載でしたか。

花田:はい、私も読者のみなさんと同じところで驚いたり、腹を立てたりしていました(笑)。東野さんは「数学者がどういう生活をしているのかを知りたい」ということで、周辺取材をされたりはしていましたが、ストーリーについては最初にお話しされなかったので。東野さんはたぶん、最初の読者である編集者がどういう反応を示すかということを見守っていらっしゃったんだと思うんです。

——編集者が読んで驚いたり怒ったりすれば、読者もそうなるだろうと。

花田:『容疑者χの献身』では私、途中で東野さんに怒りのメールを出しました。「〇〇がこんな人間だったとは思いませんでした」って。私、けっこう勘がいい方だったと思うんですけど見事に騙されましたね。私が小説の単行本を担当したのは『容疑者xの献身』までです。そのあと「別冊文藝春秋」の編集長になって、「操縦る」「攪乱す」(『ガリレオの苦悩』(文春文庫)所収)の2編を書いていただきました。小説以外では、絵本『サンタのおばさん』とエッセイ集の『たぶん最後の御挨拶』(2007年。文藝春秋)を作らせていただきました。「自分は作家だから、伝えたいことは小説で伝えたい」というご意向があって、もうこれ以上エッセイは書かないと。その時点であるものをまとめて終わり、ということになって書籍化したんです。「小説を書くことに自分の時間は全部使う」と。

小説に捧げた執筆人生

——東野さんには、デビュー前から毎日原稿用紙2枚は書いている、とお聞きしたことがあります。それはずっと続けておられたんでしょうか。

花田:毎日小説に向き合っていらっしゃったことは確かです。でも、考えている時間がすごく長い、とおっしゃっていましたね。作家生活の後半では連載を整理されて、書き下ろしが中心になっていましたから。他の編集者に聞くと、どんなときでもネタ帳は毎日書く、と言われていたそうです。旅先でもずっと。

——そのレベルで小説に集中してたってことですよね。東野さんは途中からインタビューも受けなくなりましたし、プライベートを出さない作家でしたね。

花田:そこはもう、きっぱりと。写真を撮られるのもお好きではないとおっしゃっていました。写真が出ると街で気づかれるようになるじゃないですか。それが煩わしいと思っておられたのかもしれないですね。

——先ほど、最先端の科学知識も咀嚼しておられた、という話が出ましたけど、作品によっては時代に先駆けたものも多いですよね。たとえば花田さんがご担当された長篇の『片想い』ですが、2001年の段階で性同一性のことを主題にしているというのは、日本のエンタテインメントとしてはかなり早いと思います。

花田:はい、まだ戸籍の性別も変更できない時代でしたから。『片想い』も「心は男だけど身体は女」というように単純に割り切るのではなくて、「その人の男性性、女性性はそれぞれどのくらいのパーセンテージか」という考え方で書かれているので、今となってはすごくしっくり来るというか。そういう書き方を小説で初めてされたのは東野さんじゃないかなと思いますね。1994年の『むかし僕が死んだ家』(講談社文庫)でも児童虐待の問題を取り上げていますが、「この問題について考えたい」というタイミングが、他の方よりも相当早いんだと思います。『秘密』は本が出てすぐ映像化の話が来たんですけど、「『片想い』は難しいよね」と東野さんもおっしゃっていたんですよ。それが四半世紀経ってドラマ化されたときは感慨深かったです。中谷美紀さんが主演してくださって。

東野圭吾『永遠の記憶』(文藝春秋)

——何を書いても売れるベストセラー作家になっても、実験的なことをするのをやめなかった方でしたね。遺作となった『永遠の記憶』も、読んで無茶苦茶びっくりしました。あれは、いつ頃から書いていらっしゃったんですか。

花田:「東野圭吾を爆流(バズ)らせろ!」というキャンペーンがあり、2024年の12月には、『永遠の記憶』の第一部「履歴る(たどる)」、第二部「終活る(ふりかえる)」という2つのタイトルを選んでおられたので、そこから構想を練られて、だったのだと思います。いつもそうですが、加筆して、削ってと、推敲を徹底的にされていました。

——おそらく最後の作品になるだろうからというお気持ちがあって、やり残したことがないようにされたかったんでしょうね。あの終わり方は編集者のみなさんも聞かされていなかったんですか。

花田:原稿を頂戴して、初めて私は知りました。

——すごい完結編でしたね。こんなに綺麗に完結するシリーズは珍しいと思います。

花田:本当にそうですよね。改めて東野さんはレジェンドだなと思いました。

■書誌情報
『永遠の記憶』
著者:東野圭吾
価格:2,310円
発売日:2026年8月5日
出版社:文藝春秋

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