なぜ宇野千代は恍惚を求め、芥川龍之介は発狂を恐れたのか? 睡眠薬ベロナールが引き裂いた文豪の生
一九〇二年、世界で最初の近代的な睡眠薬の開発が行われている。すなわち、エミール・フィッシャーとヨーゼフ・フォン・メーリングによるバルビタール(barbital)の合成がそれだ。翌々年の一九〇四年には、ベロナール (Veronal)という製品名のもと、最初期のバルビツール酸系睡眠薬が販売を開始した。
睡眠薬は不眠症の人々を数多く救ったかもしれない。とはいえ、睡眠薬を摂取したのが必ずしも不眠症の人間とは限らなかった。睡眠薬の過剰摂取による自殺を試みる者は後を絶たなかったし、睡眠薬の脱抑制の効果に頼って原稿を書き飛ばす文士もいた。たとえば坂口安吾がそうだ(坂口の睡眠薬(アドルム)依存については『ユリイカ:眠い特集』に寄せた「ダウナー加速主義」等で書いたのでここでは繰り返さない)。
しかし大正から昭和初期にかけて、睡眠薬をただ恍惚するために用いたのは、もしかすると宇野千代ぐらいだったのではないか。
この時期の自分のことを、私は自分で、動物状態と言ふ名で呼びました。幾つかの小さな恋愛をしたのも、この時期です。私はもう三十になってゐました。酒は好きではありませんが、一度か二度、へべれけに酔ったことがあります。湯ヶ島で知り合った中年の紳士から貰った、ベロナールとか言ふドイツの睡眠薬を、眠るためにではなく、恍惚とするためだけに面白がって飲んだのも、この時期です。(※1)
「この時期」とはおそらく昭和初期、一九二七年前後のことかと思われる。宇野は、睡眠薬として開発されたベロナールを、「眠るためにではなく、恍惚とするためだけに面白がって飲んだ」と証言している。
興味深いのは、酒や睡眠薬による陶酔に身を任せていた頃の自分を指して「動物状態」と呼んでいる点。それはすでに近代国家として確立していた日本が要請する近代的理性主体としての「人間」に対する反発でもあり、そこからの逃走でもあったかもしれない。家父長制に支えられた近代的個人、そうした規律的な「人間」のあり方から華麗にドロップアウトし、みずから自動性と反復性が律する「動物」になってみせること。あるいはこう言って良ければ、 「恍惚としての生」。
※1 宇野千代『私の文学的回想記』、中公文庫、二〇一四、Kindle版。
小説『或る一人の女の話』における即物的な快楽
たとえば、宇野の自伝的小説『或る一人の女の話』のなかにも、前述のベロナールを摂取する描写がどこまでも即物的に(しかしどこか美しく)描かれている。作中、宇野の写し身である一枝は、「面白い気持ちなの」と言って快楽のために睡眠薬を求める。だが、そこには薬物を摂取することに対する後ろめたさや暗い感じ(あるいは無頼派的な居直り)はどこにも見られない。
中年の男は夜ねむれないと言って、何とか言うドイツ製の睡眠薬を常用していた。「あたしにも下さいな、睡眠薬ってどんなものか、飲んで見たいわ。」と一枝は言った。始めて飲んだ睡眠薬は、眠るための役に立つものではなく、一種恍惚とした、夢の中にいるような気持にさせるものであることを一枝は知った。一枝はそれが、いまの一枝にとって、どんな作用をするものであるかを知ったのであった。「面白い気持ちなの、もっと貰っても好いか知ら、」と言ったりした。のちには自分で買わせて、東京から送って来させたりした。或る夜、薬を飲んだままで、おおぜいの人たちと一緒に蛍をとりに出かけたことがあった。夢遊病者のようになって、足許が危ないのを、人には知られないようにして、足を踏みしめて歩いた。川風が快い。(※2)
睡眠薬を飲んで、夢遊病者のようになりながら友人たちと蛍をとりにいく。さながら青春の残滓のようでありながら、宇野は安易な感傷やロマンティシズムに浸ることもなく、淡々と事実だけを描写していく。しかし、宇野の白眉はこの次に続く箇所にもっとも顕著に現れる。
気がつくと、一枝は仲間から離れて草叢の中を歩いていた。「大丈夫ですよ。僕の肩にお掴まりなさい。」と言って、ぐっと一枝の腕をとった者がある。それは同じ宿に新しく来た若い男であった。一枝はその男が誰だか知らない。一枝が知っているのは、その男が背が高く、色が白く、指の形が美しいと言うことだけであった。「気持が好いの。あなた、こんなところへ私を連れて来たのね、」と言って男の顔を見上げようとした瞬間に、一枝は草叢の上に押し倒された。一枝は抵抗しようともしなかった。まるで酔ってでもいるような熱っぽい体に、ひんやりとした草叢の感触が、むしろ快かったのを覚えている。何をするの、とも言わなかった。暗い野原の向うに、どこかの宿の灯がちかちかと見える。(※3)
要するに、睡眠薬によって酩酊した状態で知らない男と行きずりの性交をおっぱじめているわけだが、ここには心理描写がほとんど皆無であるという点において宇野文学の白眉と言える(むしろここで前景化されるのは、ひんやりとした草叢の感触であり、または遠くに見える宿の灯りである)。宇野は自身の写し身である主人公の経験や行為について、いかなる因果も理由も説明も解釈も物語も釈明も加えようとしない。なぜか。それは一言でいえば、本人にも「分からない」からだ。実際、作中の一枝は自身の行動について、なぜそうしたのか「自分にも分らない」と幾度も表明している。
※2 宇野千代『或る一人の女の話/刺す』、講談社文芸文庫、一九八九、一三七~一三八頁。
※3 同上、一三八頁。
物語化を拒む「分からなさ」と自然発生的な生
巻末解説を寄せた佐々木幹郎は、こうした点について次のようなことを書いている。
人は時間が経つにしたがって自分の感情を整理する。矛盾した行動を説明する場合でも、どこかで理由を見つけて一貫性を保っているように「物語」をまとめる。しかし、宇野千代はそれをしない。それどころか、人間のやることの「分らなさ」が、同じシーンを描くたびにますます露出するように仕向けられる。「分らない」ことはどんなに時間が経っても、いつまでも彼女の中で生き生きと動き回っているのである。(※4)
人間は自分の行動に対して、たとえ矛盾した行動であっても、整合性のある一貫性を保った「物語」をこしらえようとする。しかし宇野はそれをしない。この、「分からなさ」を「分からない」まま描くというスタイルは、前述した、彼女の言う「動物状態」とも直接的に関わってくる。先ほど引用した、行きずりの性交箇所をもう一度読み返してみる。それは人間同士による生々しい性交というより、むしろ蛍同士による仄かな光を伴う刹那の交尾をも思わせる。さながら、原子と原子とが偶然的に衝突するように、そこにはどのような「意味」も「原因」も「目的」もなく……。
実際、一枝は己の身体を通り抜けていく何人もの男たちとの交接にいかなる「価値」も見出さなかった。それは一枝の上を通過していった出来事としての現象にすぎず、そこにはいかなる価値も存在しなければ、いかなる性的享楽もデカダンも、加えていかなる責任も道徳も倫理も存在しない。善悪の彼岸。あるのはただ、「恍惚」だけ——。
一枝はのちになって、この頃の自分が、果してどう言う気持で生活していたのかと、疑わずにはいられない。もし、一枝にその意識があって、自分のしていることを考える余裕があったら、或いはそのことは起らなかった。そうだろうか。一枝にその意識があっても、自然発生的にそれはそうなるしかない、自然現象だったのではないか。(※5)
一枝=宇野千代は、自動機械のように反復される男性遍歴を含む自身の半生を振り返って、それを自然発生的にそうなるしかない「自然現象」であったと言ってのける。ここに、宇野の文学と人生を貫く運命観のようなものをうかがうこともできる。それこそ、バタイユめいた「賭け/遊戯」や「蕩尽」の思想との近接性も、指摘しようとすればできるだろう。意志のコントロールでは統御できない状態に身を置いて、その場に吹き荒れる運命としての出来事の渦にみずから巻き込まれてあること。そして、そうした出来事としての「自然」をただ肯定してみせること。無責任であることの意志。反復として現れる自動性。動物であること。恍惚としての生。
宇野の人生を律する反復としての自動性、言い換えれば「動物状態」=「恍惚」を増幅させる装置こそが睡眠薬に他ならなかった、としたらどうだろう。そして、同様に睡眠薬に依存しながら、しかし宇野とは対照的に、「動物状態」をどこまでも恐れ、忌避したのが芥川龍之介に他ならなかった、としたらどうだろう。
※4 前掲、宇野千代『或る一人の女の話/刺す』、講談社文芸文庫、二六一頁。
※5 同上、一二八頁。
芥川龍之介と発狂の恐怖
芥川は宇野と異なり、偏執的なまでに「人間」であることに固執した、その意味でどこまでも近代的な近代作家であった。生は彼の書く小説と同じく、すべてが因果と理知によって精密に構築された「物語」でなければならなかった。
芥川が何よりも恐れていたのが「発狂」であった(そこには幼少の頃の、狂える実母の記憶も根深く関係していたであろう)。人間からの逸脱。すなわち動物状態になること。反復としての自動性のプロセスに巻き込まれること。現象としての、恍惚としての生——。それらを芥川は誰よりも恐れた。
芥川の良き友人に宇野浩二(宇野千代とは一切関係のない別人。念のため)という文士がいる。芥川と宇野は、一九二〇年夏頃、江口渙『赤い矢帆』の出版記念会で知り合い、以後親しく交わるようになる。同年十一月には、講演旅行の帰途、諏訪へ一緒に旅行に出かけている。
そんな宇野が突如発狂した。少なくとも周りの知人たちの目にはそう映った。それは一九二七(昭和二)年のことで、つまりは芥川が自殺した年でもある。たとえば、二人の共通の友人であった広津和郎の回想記『同時代の作家たち』には、当時の宇野の奇行が仔細に書き留められている。こんな具合に。
二階に行くと宇野は茶ぶ台の前に端然と坐り、風呂敷から原稿用紙を出して、何かしきりと書いていた。
「今論文を書いているんだ」と上機嫌にいった。
「何の論文だ?」
「医学上の論文だ。俺の思考力は俺の字を書く速力の三倍の速力をもって走っている。俺の頭には後から後から考えが湧いて来るんだが、手で書いていては間に合わない……」
彼はそういうと共に、字を書かずにただポンポンと鉛筆で原稿用紙の上に点を打ち始めた。その点を打つ手の動きがだんだん加速度が加わって来て、妙に調子がつき、見るからに苛立しそうであった。
「よし、僕が代って書いてやろう」と私はいった。
「そうか。君が書いてくれるか。それじゃ書いてくれ」そういって宇野が立上がったので、私は彼の坐っていた跡に坐って鉛筆を取った。
宇野はそのまま坐らずに縁側を向こうに行ったり此方に来たりし始めた。
「好いか。書いてくれ。……俺の母は貞操を立て通したらしい。……俺の思考力は俺の舌の速力の三倍の速力をもって走っている」と彼はもどかしそうにいった。そういえば彼の言葉は舌が少しもつれて来て、その語尾がはっきりしなかった。
「好いか、書いたか」
「ああ、書いた」といったが、私はただ原稿用紙の桝の中に彼がしたようにポンポンと点を叩いていただけであった。(※6)
宇野浩二はこのとき、すでに梅毒による進行麻痺(精神障害)の徴候が現れていた。宇野の親友であった芥川も当然、彼の発狂を間近で目撃していた一人であった。
発狂した宇野の自動性。「字を書かずにただポンポンと鉛筆で原稿用紙の上に点を打」つ。原稿用紙の桝目に穿たれた黒点の連なり。どこまでも非人間的で機械的なリズムとオートマティスム(自動書記)が、線形的に整序化された文章に取って代わる。
芥川は広津に向かって言う。「こわいね。俺達だっていつああなるか解らないよ。ひとごととは思えないよ」(※7)。芥川は狂える宇野に亡き実母の姿を重ねていたのかもしれない。
※6 広津和郎『同時代の作家たち』、岩波文庫、一九九二、二四~二五頁。
※7 同上、三八頁。
病苦とアディクションの加速
この頃、芥川はすでに精神的にも肉体的にも病み衰えていた。一九二五(大正一四)年一月下旬から長期的に流行性感冒(インフルエンザ)にかかり、胃酸過多とアトニー、さらに神経性消化不良も併発して、常に胃腸の具合が悪かった。一方、興文社による『近代日本文芸読本』全五巻を編纂し、二年ほどかけて同年一一月に刊行にこぎ着けたが、編集作業の負担に加わり印税等の問題も発生、心労が重なり不眠症となる。そこに叔父の半身不随、知人の離婚問題などが重なり、神経衰弱による不眠は悪化する一方だった。(※8)
翌年(一九二六年)の一月二〇日の佐佐木茂索宛の書簡からは、「何分胃は悪し、腸は悪し、神経衰弱は甚しい」「小生は二月近くの不眠症未だに癒らず、二晩ばかり眠らずにゐると、三晩目には疲れて眠るには眠るが、四晩目は又目がさえてしまふ」(※9)と、自身の満身創痍な窮状の訴えが見て取れる。
芥川が睡眠薬に本格的に依存するようになったのもこの頃のことだろう。たとえば、この年の二月に書かれた「病中雑記」には、「月余の不眠症の為に〇・七五のアダリンを常用しつつ、枕上子規全集第五巻を読めば、俳人子規や歌人子規の外(ほか)に批評家子規にも敬服すること多し」(※10)とあり、催眠・鎮静剤のアダリン(ブロムジエチルアセチル尿素)をすでに常用していたことがわかる。加えて、冒頭には「毎年一二月の間になれば、胃を損じ、腸を害し、更に神経性狭心症に罹り、鬱々として日を暮らすこと多し。今年も亦その例に洩れず。ぼんやり置炬燵に当りをれば、気違ひになる前の心もちはかかるものかとさへ思ふことあり」(※11)ともあり、神経衰弱が発狂の前駆症状なのではないかと恐れていたことがうかがえる。とある書簡には「僕の頭はどうも変だ」「精神鑑定をして貰おうかと思ってゐる」(※12)と書きつけている。発狂に対する偏執的とも思える不安と恐怖が、不眠と神経衰弱をさらに悪化させる。典型的な悪循環である。
四月九日の佐佐木茂索宛の書簡。「さてアロナアル・ロッシュ、君は一錠にて眠られると言ひし故一錠のみし所、更に眠られず、もう一錠のみしが、やはり眠られず、とうとうアダリンを一グラムのみて眠りしが、アロナアルの効力は細く長きものと見え、翌日は一日懜々然として暮らしたり」(※13)。アロナアルもアダリンと同様の睡眠薬。ロッシュは会社名。佐佐木茂索がくれたのだろう。六月一四日の書簡には「君が来ないものだから(即君が来らずアロナアルロシュも来らざる故)」(※14)という文が見えるし、八月一二日消印の書簡には「アロナアルロツシュを二びん買つて来てくれ給え」(※15)と佐々木に頼み込んでいる。効かないと言うわりにはお気に召した様子である。アロナアルは半減期が長く、翌日にも残るので日中もぼんやりとしていたらしい。アダリンの用量が「病中雑記」の頃から地味に増えている(〇・七五グラムから一グラム)のも気にかかる。
「多事、多難、多憂、蛇のように冬眠したい」(※16)。一一月、各文芸誌の新年号に寄稿する原稿に手こずり、寒さのために痔も再発し、不眠症がさらに悪化。「催眠薬の量は増すばかり」(※17)。
芥川がアヘンを用いはじめたのもこの頃のことだった。入手経路は歌人にして医師でもある斎藤茂吉。一一月二一日の斎藤茂吉宛の書簡から引こう。「唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にして弱り居り候間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や」(※18)。続けて一一月二八日の斎藤宛の書簡には「御手紙ならびにオピアムありがたく頂戴仕り候」(※19)。オピアムとはオピウム、つまり送付を依頼したアヘンエキスを指す。
一二月二日の佐佐木茂索宛書簡には「鴉片エキス、ホミカ、下剤、ヴエロナアル、——薬を食つて行きてゐるやうだ」(※20)と書きつけている始末。ホミカも睡眠薬の一種だと思われる。数種の薬物に加えてヴエロナアルとあるが、どこかで聞き覚えがないだろうか。そう、これは宇野千代が耽溺してやまなかった、あのベロナールである。
※8 髙橋龍夫『芥川龍之介:精神の自由を尊重するなり』、ミネルヴァ書房、二〇二四、二二三頁、二三三頁。
※9 芥川龍之介『芥川龍之介全集 第二十巻』、岩波書店、一九九七、二〇九頁。
※10 芥川龍之介「病中雑記」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3786_27337.html
※11 同上。
※12 前掲、『芥川龍之介全集 第二十巻』、二五七頁。
※13 同上、二二九頁。
※14 同上、二三九頁。
※15 同上、二四九頁。
※16 同上、二五三頁。
※17 同上、二五九頁。
※18 同上、二五九頁。
※19 同上、二六〇頁。
※20 同上、二六一頁。
反復する自動性と「人間/動物」の彼岸
奇しくも、二人は同じ薬物を常用していた。しかしその使用意図は異なるどころか正反対であったとすら言える。宇野は恍惚となるために、言い換えれば「動物状態」に生成変化するためにベロナールを用いた。それに対して芥川は、ただ眠りたいがためにベロナールを用いた。そこには恍惚も、動物への意志もない。むしろ逆である。芥川は、人間からの逸脱としての雪崩れを押しとどめるために、すなわち不眠による神経衰弱の果ての「発狂」から少しでも逃れるために、ベロナールにすがったのである。
年は明け一九二七(昭和二)年。つまり芥川にとって最期の年。「ソレカラVeronalとNeuronalともおとり置き下さるまじく候や」(一月二八日斎藤茂吉宛書簡)(※21)。ノイロナール(Neuronal)も睡眠薬。「ヴェロナアル〇・七常用。アロナアルよりもヌマアルの方が眠るのに善い」(消印二月一六日佐佐木茂索宛書簡)(※22)。
芥川の死の二日前、内田百閒が田端の芥川宅を訪ねている。内田の「亀鳴くや」という随筆に、そのときの様子が描かれている。たとえば、こんなくだり。
芥川は、こちらから何を話しても、聞いてはゐるらしいが、向うの云う事はべろべろで、舌が動かないのか、縺れてゐるのか、云う事が中中解らない。どうしたのだと尋ねると、昨夜薬をのみ過ぎたのだと云う。そんなことをしてはいけないだらうと云えば、それは勿論いけないけれど、そんな事を云ふなら、君だつてお酒を飲んで酔つ払ふだらう、などと云つて、さう云つたかと思ふと、人の前で首を垂れて、眠つてしまふ。
仕方がないから、様子を見ながらぢつと坐つてゐると、又目をさまして、やあ失敬、失敬。つい眠つてしまつた。だつて君、そりや実に眠いんだぜと云つて、少し笑つた様な顔になつたりする。(※23)
「恍惚」を避けながら、しかし否応なく「恍惚」に引き寄せられていく芥川の姿がここにある。人間の輪郭が揺らいで、「動物状態」にじりじりと近接していくかのように。理性的な人間にとどまりたいがために常用したベロナールが「恍惚」を宿痾の如く呼び寄せる。ここに芥川の運命を決定づけた喜劇的な皮肉がある。
芥川はこの年の七月二四日に自殺した。広津和郎は次のように記している。
それがヴェロナール自殺である事、その前の晩まで芥川君は何処かの雑誌の原稿を書きつづけ、それを書き上げて速達にして明朝出してもらえるように封にしたのを机の上に置き、それからヴェロナールを飲んで静かに寝床に横たわり、聖書を拡げて暫く読み、その読みさしの聖書を胸の上に伏せたまま永遠の眠りについた——[以下略]。(※24)
芥川は宇野千代の愛したベロナールの過剰摂取(OD)で自殺した(なお、近年の芥川研究においては青酸カリによる自殺説が有力視されていることも明記しておく)(※25)。
宇野は「動物」になるためにベロナールを用いた。芥川は「人間」にとどまるためにベロナールを用いた。しかし、ベロナールの過度な常用は芥川に「人間」にとどまることを許さなかった。
芥川にとってアディクション(薬物依存)とは何だったのか。もはや意志のコントロールのもと薬を飲むのではない。薬を飲むことによって眠り、目覚め、また薬を飲むという反復=再帰的プロセスのなかに生活そのものが組み込まれていく。そこでは「私は薬を飲む」という能動態と、「薬による反復的プロセスの下に私が置かれる」という受動態との区別さえ曖昧になる。主体と薬物の主従関係が反転する。そこに、芥川が狂える宇野浩二のなかに見て恐怖した、近代的な人間主体を解体する「反復としての自動性」=「動物状態」の徴候が宿る。
結果、芥川は「人間」と「動物」、どちらの生のあり方にも安住することができず、端的に「生」それ自体を終わらせることにした。あるいは、「人間」と「動物」という二項対立の彼岸に赴いた、とでも言おうか。
※21 同上、二七五頁。
※22 同上、二八二頁。
※23 内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』、ちくま文庫、一九九三、二五〇頁。
※24 前掲、『同時代の作家たち』
※25 前掲、『芥川龍之介:精神の自由を尊重するなり』、二六一頁。
『葱』に刻まれたもう一つの自己
余談めくが、実は、芥川龍之介と宇野千代のあいだには少なからず交流があった。宇野は一九一七(大正六)年に上京しているが、本郷三丁目のフランス料理店「燕楽軒」で店員として働いていたときに芥川と知り合っている。
一九二〇(大正九)年一二月二〇日付けの宇野に宛てた芥川の書簡も残されている。内容は宇野が書いた小説に対するダメ出しが主で、たとえば「小説はいけません あれぢや題材も描写も平凡だから駄目です」とか「もし次に何か書くのだつたらあんな大事件でない事をもっと丹念に見てもつと丹念に書いて御覧なさい」といった、先輩作家らしいアドバイスと叱咤激励が書かれている(※26)。
ところで、芥川の『葱』という小説は、当時の宇野千代をモデルにしたものと言われる(※27)。一見すると「奔放で夢見がちな少女が、恋愛より安い葱を選んでしまう」という軽妙な掌編にすぎない。しかし、要所々々で語り手である芥川本人による主人公に対する批評が割り込んでくる、という点において注目に値する。たとえば、「おれはこの挿話を書きながら、お君さんのサンティマンタリスムに微笑を禁じ得ないのは事実である。が、おれの微笑の中には、寸毫も悪意は含まれていない」(※28)といった具合に。お君さんというのは本作の主人公で、神保町のカフェで女給をしている。
ためしに、この作品に立ち現れている芥川の「精神的地形」を捉えるためのひとつの解読格子を用意してみる。一九一一(明治四四)年、一高時代の若き芥川が友人に宛てた書簡のなかの、次のような文言。
レルモントフは「自分には魂が二つある。一は終始働いているが一つはその働くのを観察し又は批評している」といった。僕も自己が二つあるような気がしてならない。そうして一つの自己はもう一つの自己を、絶えず冷笑し侮辱しているンだもの、[中略]僕は酔っている一方において絶えず醒めてもいる。僕は囚われている一方に於ては、常に解放せられている。[中略]僕は自ら聡明だと信ずる、唯その聡明は呪うべき聡明である。僕は聡明を求めて却って聡明のために苦しんでいるのだ、その相博っている大きな二つの力の何れかが無くなってくれればいい。(※29)
芥川の内面を律する、分裂した二つの自己。一つの自己は酔っているような自動性に支配されているが、絶えず醒めているもう一つの自己がそれを冷静に批評し冷笑する。動物状態に流されそうになる自己を、高次に位置するメタ自己が絶えず監視し統御することで、理性的な人間主体としての「僕」を保持する。
こうした二つの自己の関係性は何も珍しいものではない。フロイトにおけるエス(無意識)に対する超自我、ジャック・ラカンにおける想像界(小文字の他者)に対する大文字の他者、ルソーにおける自然状態に対する社会契約、あるいはカントにおける雑多な感覚的印象(Das Mannigfaltige)に対する超越論的統覚、はたまた二重過程理論におけるシステム1(自動性)に対するシステム2、等々……。二つの異なる位相の拮抗と相剋は近代に生きる人間主体を深く貫いている。
宇野千代をモデルとする主人公の少女=「お君」はこの場合、メタ自己によって統御されるべき「酔っている」自己にあたる。それに対して、お君の言動に介入してくる作者である芥川=「おれ」は、そうした「酔っている」自己を絶えず批評し冷笑するメタ自己にあたる。要するに、芥川は本作を通じて、二つある自己の一方、すなわち抑圧されるべき自己を「お君=宇野」に割り当て、高次のメタ自己としての「おれ」を自分=作者兼批評家(芥川自身)の位置に割り当てることで、自らの内部にある「動物状態」を外部化し、それを安全な距離(メタレベル)から観察し、批評し、冷笑するという構図をつくり出したのである。
言い換えれば、『葱』におけるお君=宇野は、芥川が自らの内に認めながらも抑圧せざるを得なかった、もう一人の自己だったのではないか。だからこそ芥川は、お君のサンティマンタリスム(センチメンタリズム)を嗤いながら、しかしその嗤いに「寸毫も悪意は含まれていない」とわざわざ断らなければならなかった。そこには軽蔑だけではなく、自分にはなし得ない仕方で生きる者への微かな羨望さえ混じっていたのかもしれない。
実際、お君が深夜の部屋で文学に耽る姿を書いているうちに、語り手である「おれ」自身が、「畜生、悪意がない所か、うっかりしているとおれまでも、サンティマンタアルになり兼ねないぞ。元来世間の批評家には情味がないと言われている、すこぶる理智的なおれなのだが」と言い出す。
お君の「センチメンタリズム」が書き手に感染している。言い方を変えれば、自らの内部にある「動物状態」を外部化し、それを安全な距離(メタレベル)から批評する、という二つの自己をめぐる枠組みそれ自体がここでは危機に瀕し、溶解しかけている。芥川を最期まで「人間」に縛りつけていた「呪うべき聡明」から解放される契機としてのクリティカル・ポイントが、たしかにこの一瞬、垣間見えたのである。
もっとも、芥川を苦しめた「二つの自己」が完全に解消されるのは、結局のところ、自死の瞬間だった。しかし私が唯一気になるのは、その瞬間、果たして芥川にあの「恍惚」が訪れたのか否か、それだけである。
※26 前掲、『芥川龍之介全集 第二十巻』、三二〇頁。
※27 同上、二一頁。
※28 芥川龍之介『葱』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/106_15226.html