「武器はとにかく文筆」革命家・外山恒一、名文家としての顔ーー赤川次郎から糸井重里まで、大いに語る

■久しぶりの痛快なニュース

桐島聡のニュースは久しぶりに痛快だったと語る外山氏

ーーところで、東アジア反日武装戦線のメンバーで、1975年に連続企業爆破事件の被疑者として全国に指名手配された桐島聡が今年1月、入院先の病院で死亡したことが明らかになりました。外山さんは『良いテロリストのための教科書』などの著書で東アジア反日武装戦線に頁を割いていますが、一連のニュースをどう受け止めましたか。

外山:僕はとくに今世紀に入って以降、肯定的なことは何一つ起きないと世をはかなみ、ひたすら厭世的な気分になっていたんですが、そんな中で久しぶりに痛快なニュースでした(笑)。たとえば何年か前に半世紀近い逃亡生活の末に逮捕された中核派の大坂正明さんとかが、仮に今回の桐島さんと同じように、亡くなるまで逃げ切ってたとしても、これほど痛快ではなかったと思う。

  桐島聡の場合は、大坂正明と違って組織に守られて逃げ回ってたわけでもないし、そもそも〝逃げ回ってた〟という感じですらなく、むしろバーで楽しく飲んでたり、バンドまでやってたみたいで、〝悲惨な逃亡生活〟どころか普通に人生を謳歌してたっぽいでしょう。今回正体がわかって、改めて〝潜伏生活〟中の偽名の桐島さんと付き合いがあった人たちをマスコミが取材しても、みんな悪く言わないのがますます感動的です。

ーー東アジア反日武装戦線のその後を見ても、支援者がいたわけではなさそうですか。

外山:おそらくそういうのとは完全に縁を切って逃げてたんだと思います。反日武装戦線の裁判の支援者たちはたぶん公安に監視されてますから、むしろそうした界隈からの支援を受けていればもっと早く捕まったでしょうね。そもそも反日武装戦線というのは、「ナントカ同盟カントカ派」のような、いわゆる新左翼セクトとはまったく異質のグループです。これは新左翼運動史の基本なんですが、ここがわかっていない人が多い。

ーー全共闘運動は党派=セクトの運動とはまた違うところに核心があり、ノンセクト・ラジカルこそが中心であったと著書でも強調されていますね。そして、東アジア反日武装戦線はノンセクト・ラジカルの中から出てきたグループであると。

外山:そうですね。敗戦の痛手から復興して〝豊かな社会〟が実現していくにつれて、共産党や社会党などのいわゆる旧左翼は、「いつまでも過激なことを言っている場合じゃない」と穏健化していき、そういう日和見が我慢ならんと共産党や社会党を離脱して、1950年代後半から60年前後にかけて登場してくるのが新左翼です。

  最近は微妙ですが、たいていの時代には若者は血気盛んですからね。彼らは共産党や社会党に代わるいくつかの新しい革命結社を作っていった。それらが60年代前半の過程でどんどん分裂して、60年代半ばくらいになると、ナントカ派だのカントカ派だのがもう10個も20個もあるような状況になります。そのそれぞれが「他は全部ニセモノで、我こそは真の革命党なり」と言い張っている。当事者以外にはだんだんバカバカしくなってきますよね。それで60年代後半には既成の党派に属さない(ノンセクト)、一匹狼の過激派(ラジカル)の群れである「ノンセクト・ラジカル」が大量発生しました。

  反日武装戦線というのは、このノンセクトラジカルの延長線上に70年代前半に登場してきたというのがポイントなんです。組織的な団結を志向した人たちの離合集散の果てに存在していた諸党派の運動と、そういうものにうんざりしたところから出発したノンセクトラジカルの運動とは、同じ新左翼ではあってもちょっと違う潮流なんですよ。

■ノンセクトの系譜としての反日武装戦線

ノンセクトとしての活動は自然とそうならざる得ない時代だったと話す外山氏

ーー外山さんが運動にかかわり始めたのは高校生だった80年代の末ですが、当時の状況はどうでしたか。

外山:僕らの時期にはもうナントカ派なんてものはただの前時代の遺物、負の遺産でしかなくて、そんなものには何ら共感できなかったし、自然にノンセクトとしてやっていくことになりました。中核派だの赤軍派だのという新左翼諸党派の運動に対して僕はほとんど思い入れはなくて、一応、先輩としてある程度はリスペクトするにしても、僕なんかも連なっているノンセクトの系譜とは違うものだと考えています。一方で、ノンセクトの系譜の諸先輩方のさまざまな試行錯誤の中で、かなり重要なもののひとつが、反日武装戦線です。

ーー東アジア反日武装戦線は法政大学から始まったのでしょうか。

外山:大道寺将司をはじめとする言い出しっぺ的な人たちはそうです。68年を量的なピークとする全共闘運動は、諸党派ではなくノンセクトラジカルが主導したものだったわけですが、反日武装戦線のルーツになる大道寺らのグループも、全共闘系のごくありふれたノンセクト活動家の小さなサークルとして、法政大で結成されたようですね。それが70年夏の「華青闘(華僑青年闘争委員会)告発」という事件の衝撃で、「反日思想」を掲げる特異なグループへと変質していくんです。

  華青闘告発については、90年代半ばぐらいから絓秀実が盛んに論じるようになって、近年ようやく多少は有名になってきました。左翼運動というのはもともと、資本家vs労働者という構図で発想していて、のちマイノリティと言われるような存在については、長らくあまり関心を払ってこなかったんですよ。日本で言えば在日問題とか、部落問題とか、障害者問題あるいは女性差別の問題とか、「差別はいけません」くらいのスタンスは常識的に表明してましたし、部落解放運動が大正時代からあるように、反差別運動にもまったく取り組んでこなかったわけではないんですけど、それらの問題は、資本家vs労働者という対決構図に付随する二の次、三の次の問題くらいにしか位置づけられていませんでした。



 そういうところに70年夏、在日中国人のグループ「華青闘」が、当時の主な新左翼党派が勢ぞろいしている大集会の場で、「日本の新左翼の無自覚な差別性」、つまり差別やマイノリティの問題に対する認識や取り組みの浅さを徹底批判するという、華青闘告発が起きるんです。ノンセクトの主導だったはずの全共闘運動に強引に介入してくる諸党派への反感をつのらせていたノンセクト活動家たちも、華青闘の尻馬に乗って「そうだそうだ!」と党派活動家たちを糾弾しましたし、突然の下剋上的な事態に狼狽した諸党派の幹部たちは、壇上で華青闘やノンセクトの活動家たちに、「すみませんでした。今後はそうした問題に真剣に取り組みます」と公式に表明してしまったんですね。以後、日本の新左翼運動シーンの全体が、諸党派もノンセクトも含めて、反差別運動一色になっていきます。

ーー東アジア反日武装戦線は、そのなかでも過激な思想を持つようになった。

外山:華青闘をはじめとするマイノリティ勢力に肩入れする形で諸党派を批判したノンセクトのほうが当然、〝反差別〟のテーマをさらに掘り下げていこうとしたんです。大道寺たちのサークルも、華青闘告発を機にマイノリティ問題にのめり込んでいって、「反日亡国思想」と称する特異なロジックを組み立てていき、72年末にはグループ名を「東アジア反日武装戦線」と改称しています。彼らに言わせれば、ほとんど「日本人は生まれながらに罪深い」ということになります。華青闘が批判したのは、差別・マイノリティ問題への日本の新左翼の取り組みの甘さだけではなくて、いわゆる戦争責任問題にもまったく無関心ではないか、という批判もセットだったんです。それまでの日本の反戦運動は、基本的には被害者目線からのものでしかなかった。



 一部の軍人や政治家のせいで、我々庶民はひどい目に遭った、と。徴兵されて悲惨な戦場に放り出されるわ、空襲に逃げ惑ったあげくに原爆まで落とされるわ、生活は苦しいわ自由にものも言えないわ、とにかくろくな時代じゃなかった、二度とあんな時代はごめんだ、という反戦運動で、徹頭徹尾、被害者目線だったんです。ところが60年代後半のベトナム反戦運動の過程で、まず「この戦争では日本はアメリカの不正義の戦争に加担する加害者側だ」という問題意識が芽生えてきて、「そういえば前の戦争でも我々は近隣諸国を侵略する加害者だったのでは?」と遅まきながら気づき始めます。

 そこに華青闘がくだんの大集会で、「侵略民族の日本人諸君!」って演説をやったんですね。「日本はかつて加害者だったのでは?」という認識をちょうど獲得しつつあったノンセクト活動家たちさえ、〝ガーン!〟ですよ。その衝撃を極限まで突き詰めたのが反日武装戦線で、「反日」って今ではネトウヨが左翼に向かって言う悪口、つまり他称ですけど、大道寺たちは自称として「反日」を掲げたんです。

ーー日本人の若者たちが自らを「反日」と言い始めた。

ザ・ブルーハーツからの影響で、編み上げのワークブーツは今でも履いているという

外山:華青闘に「お前ら日本人は侵略民族なんだ!」と言われ、ガーンとショックを受けて、いろいろ反省してみると、古代から日本人はろくでもないぞ、と。今の僕には賛同できない見方ですが、彼らが言うには、大和民族は古代から朝鮮半島にちょっかいを出し、隼人や蝦夷を迫害し、中世・近世にもアイヌや琉球を侵略したし、秀吉が朝鮮を侵略したりしてきた、と。たしかに日本人は〝生まれながらに〟侵略民族であるという気がしてくるわけです。こんなろくでもない民族は地上から一掃して、悪い日本人のいない平和な〝東アジア共和国〟が築かれなければならない、ということになるんですね。



 世間は反日武装戦線を左翼扱いしていますが、僕に言わせれば彼らは特殊な右翼です。そこらへんの自称右翼よりよっぽど、自分たちが〝日本人であること〟にこだわりまくっている(笑)。結論が普通の右翼と逆になってるだけで、私は日本人です、生まれてすみません、という話なんですから。1974年8月から数ヶ月間、いわゆる連続企業爆破事件という派手な爆弾闘争を展開して、翌75年5月に一斉逮捕されますけど、以後次第に彼らの独特の思想や活動形態が報じられていくなかで、右翼であるはずの鈴木邦男が反日武装戦線へのシンパシーを示した本(三一書房『腹腹時計と<狼>』)を書いて話題になりました。右翼が極左を絶賛しているぞ、というわけです。

  しかし僕からすれば意外でも何でもない。そもそも鈴木さんは反日武装戦線の思想ではなく、彼らの生き様、死に様に感動してただけですし、まあ言えば未来の〝東アジア反日共和国〟からやってきたような、架空の敵国の右翼に同じ右翼として感動したようなものです。

 鈴木さんの本のタイトルにもある『腹腹時計』というのは、反日武装戦線が地下で流通させていた小冊子です。爆弾製造マニュアルの部分たけがセンセーショナルに言われている印象がありますが、実はそんなのはどうでもよくて、彼らの思想的立場を表明している部分がすごかったんですよ。「日本人がいかに罪深いか」ということをこれでもかと書き綴った、いわばマニフェスト部分がまず衝撃的だった。それから〝ゲリラ兵士の心得〟みたいな行動マニュアルの部分。「ゲリラ兵士たるもの、一般市民の中に溶け込まなければならない」ということを口を酸っぱくして強調している。

  男女ペアで夫婦を装ってアパートとかに住み、近所への挨拶はかかさず、ゴミ出しのルールもちゃんと守り、朝は夫役がピシッとスーツを着て〝行ってきまーす〟と家を出て、駅まで歩いて電車に乗り、どこかに出勤しているふりをして、こっそり戻ってきて爆弾を作れと(笑)。どこで公安が聞いてるかわからないのに喫茶店とかで革命論なんか熱く語ってんじゃねえよ、と。総じて「大義のために自分を厳しく律して生活せよ」ということですね。



 さらに彼らは、どんなに決意を固めていても日本の優秀な公安の手にかかれば最後は自供させられてしまうんだから、逮捕されそうになったら潔く自決せよ、ということで〝死の盟約〟まで交わしてるんですよ。自決用に、青酸カリ入りのカプセルを入れたペンダントを常に身につけてます。とはいえ実際には、いざ逮捕されるとなると多くのメンバーは決意がにぶって自決なんかできずに捕まっていくんですが、一人だけ斎藤和という人が本当にそれを飲んで死んでいる。鈴木邦男はそういう生き様・死に様に感動しただけです。

■反日武装戦線の最初の大事件

ーー当時、東アジア反日武装戦線との関係が取り沙汰された平岡正明のような文化人もいましたが、一般的な若者への広がりはどうだったのでしょうか。

外山:74年8月の三菱重工爆破事件が反日武装戦線の最初の大事件で、死者8名、重軽傷者380名を出していますよね。日本近代史上おそらく最大の爆弾テロ事件のはずです。当然、マスコミは無差別テロだ、人間の皮を被ったケダモノだと犯行グループを一斉に非難しました。まあ実際には彼らは本当は死者を出すつもりはなかったんです。爆破30分前に三菱に予告電話をかけて、「命が惜しければ逃げろ」と警告したんですが、悪戯だと思われて相手にされず、不本意にも死者を出してしまった。

  だから実は彼らは動揺してたんですけど、動揺を悟られまいと虚勢を張ることにしたんです。罪のない、無関係な単なる通行人まで死なせるとは許しがたい、と非難轟々の報道が連日おこなわれているところに、犯行声明が出ます。これが要するに、「〝罪のない、無関係な〟日本人などいない!」という内容なんですよ。実は虚勢だったんですけど、たぶん結果的にはこの犯行声明文が、当時のノンセクト活動家たちにものすごい衝撃を与えたんだと思うんですよね。私だって20歳の頃に15年遅れで読んで打ちのめされたぐらいですから。桐島聡もこの三菱重工爆破事件の後に反日武装戦線に参加した一人で、やっぱり目が覚めるような衝撃を受けたんでしょう。



 もちろんノンセクト活動家の多くは自分も爆弾闘争に踏み切るなんて覚悟はできないし、おそらくはそうした自分の中途半端さに忸怩たる思いを抱えつつ、一斉逮捕後の裁判支援・獄中活動支援の運動に参加しました。それ自体は自然な流れだと思いますけど、その後の左翼運動のノリが〝口だけ反日武装戦線〟のようなものになっていってしまったことには僕は大きな疑問を抱いています。爆弾闘争に踏み切る覚悟もないくせに、反日武装戦線が提示したロジックだけを横領して、正義の側に立ったつもりで〝差別者〟や〝マジョリティ〟の糾弾に熱を上げています。反日武装戦線と違って、安全圏から口だけ動かしてるわけです。

  大道寺や桐島聡、あるいは斎藤和のように、自らの生き様、死に様を賭けてのことであれば、賛同はしないまでもリスペクトはしますけど、そうじゃないでしょう、いわゆるポリコレは。むしろ単に気に入らない奴を〝キャンセル〟するための武器として反差別のロジックが使われてるような状況でさえあって、反日武装戦線はそういう負の遺産も残してしまったなと思います。

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