「武器はとにかく文筆」革命家・外山恒一、名文家としての顔ーー赤川次郎から糸井重里まで、大いに語る

今回の都知事選で政見放送の「伝説」がふたたび話題となった外山恒一氏

 荒れに荒れた東京都知事選についての議論が、選挙結果が出た現在でもさまざまに行われている。選挙中では、選挙ポスターや政見放送のあり方など、連日多くのマスコミが取り上げ、SNS上では侃々諤々とした主張が繰り広げられていた。

  その報道の多くは、今でも「伝説」として語り継がれている、2007年に行われた外山恒一氏の東京都知事選の政見放送にも言及。外山氏本人にもインタビューをするメディアもあった。「こんな国は滅ぼせ」「選挙で何かが変わると思ったら大間違い」などと選挙や体制批判を主張し、最後に中指を突き立てた姿は、多くの社会問題をセンセーショナルに投げかけた。

  一見すると過激なイメージの付きまとう外山氏であるが、これまでに数多くの著作を出版してきた作家でもある。内容自体は過激なものも散見されるが、筆致はどれも端正であり、リズムがよく華やかだ。過激さだけでは語り尽くせない外山氏に、文筆家、読書家としての姿に迫る。(編集部)

■依頼されて書いた本はほとんどない

外山氏の著作や関連書籍。『絓秀実コレクション2 二重の闘争──差別/ナショナリズム』(blueprint刊)では絓秀実氏との親交や絓派になった経緯を寄稿している。

ーー外山さんは近年、また文筆家としての活動が増えている印象です。1989年、18歳の時のデビュー作『ぼくの高校退学宣言』などの初期作品はインパクトが強く、鮮烈な印象を私のような同世代の読者に与えました。当時は編集者からのオファーが殺到したのでは?

外山恒一(以下、外山):いやいや、依頼されて書いた本はごく最近のものを除いてほぼ一冊もありません。全部持ち込みで、無理やり出していたようなものです(笑)。最初の本(『ぼくの高校退学宣言』)からラッキーで、いわゆる管理教育と自己流に戦いまくって高校中退にいたるまでの出来事を箇条書きにしたものを付して、「手記にまとめたい」と出版社に手紙を送ったんですよ。

  当時の僕は世間知らずで、大きな出版社の名前しか知らなかったし、とりあえず徳間書店、集英社、小学館の三社に送ったのかな。そしたらすぐに徳間から「出しましょう」と返事が来て。その後、次の本を出そうという話はどこからも来なかったので、今度は反管理教育の本を出しているような出版社をいろいろ当たって、2冊目(1990年『ハイスクール「不良品」宣言』駒草出版)を出せましたけど、その後、また出してくれるところがなくなりました。

ーー1993年にJICC出版局(現宝島社)から出た『さよならブルーハーツ』も記憶に残る一冊でした。

外山:92年に『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト社)という本を出したんですが、ちょうどその頃に「中森文化新聞」(※90年代に扶桑社『SPA!』誌で人気を博した、評論家・中森明夫の〝雑誌内雑誌〟的な連載)で僕の活動が取り上げられたり、短い文章の寄稿を求められたりするようになりました。『さよならブルーハーツ』の単行本化はその延長で、やっぱり持ち込みなんですけど、「中森文化新聞」で話題になってる書き手だからということで宝島が乗ってきてくれた。当時、サブカル系のメディアへの露出が多かったのも、中森明夫が無理やり押し込んでいただけで、中森さんがなぜこんなわけのわからない奴に夢中になっているのか、サブカル系の編集者たちは少しも理解できてなかったと思います。「中森さんのプッシュだから仕方がない」という感じであちこち出してくれていただけですね(笑)。

ーー1992年の『注目すべき人物』を読むと、外山さんの中ですでに社会運動への懐疑のような視点は芽生えていますね。反管理教育闘争を省みる文脈で、諏訪哲二さん率いる「プロ教師の会」が参照されていたりする。

外山:反管理教育運動の新しい担い手として登場して、最初の2年くらいは若くてチヤホヤされますし、気分もよかったんですが、やっぱり既成の運動の年輩活動家たちとしばらく一緒にやっているとうんざりするようなことが多くなるわけです。だんだん小出しに彼らを批判するようになって、そうすると迫害されるし、ますます「徹底批判してやる!」と(笑)。

■赤川次郎しか読んでいなかった

ーー作家になるというビジョンはあったんですか?

外山:中学生の頃、内容的には本当にどうしようもないレベルでしたが、文章を書くのは得意だと自覚するようにはなりました。「文筆で世に出よう」というのは、その頃から思っていましたね。まさか自分の活動のレポートをどんどん出すようなタイプの書き手になるとは想像していませんでしたが。

ーー当時はどんな作家の作品を読んでいましたか。

外山:今思えば本当に恥ずかしい話ですが、赤川次郎しか読んでいなかった(笑)。あとはせいぜい栗本薫や小松左京は少し読んだかな、という程度です。そもそも本なんか一冊もないような家庭で育ちましたし、赤川次郎で初めて活字というものに触れて、熱中したあげくに「僕も推理作家になるんだ!」と妄想を膨らませ始めたんですね。

ーー外山さんの文章は一定のリズムがあり、どの編集者も評価するだろう読みやすさがあります。そこには赤川次郎の影響があるのですね。

外山:もはや影響の跡は影も形も残っていませんが、文章術という点では実は僕のルーツにあるのは赤川次郎なんです。そりゃあ読みやすくて当然ですよ(笑)。

ーー政治や思想の本を読み始めたのは、高校生くらいでしょうか。

外山:そうですね。90年代半ばあたりから、『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)が、社会問題に関心を持ち始めた若者たちの入門書として機能する流れになりますが、80年代いっぱいは、まず朝日文庫の本多勝一シリーズを読むというのがそういう過程の王道でした。僕も少し遅いですけど、17歳で高校を中退する前後から本多勝一を次々と読むようになりました。

  浅田彰ブームの時は中学生ですし、浅田彰の名前も、そんなブームがあったことも20歳を過ぎるまで知りませんでしたね。ただ高校時代、僕が学校当局と日々戦っているのを見てた同級生の女子が、吉本隆明と栗本慎一郎の対談本(『相対幻論』)を勧めてくれたことがあって、今思えばあれがニューアカ少女というやつだったのか、と。吉本と栗本の対談なんて当時の僕には読んでもさっぱり意味がわからなくて、結構可愛い子だったのに、いろいろ惜しいことをしたもんです。

ーーなるほど。文筆家としては超早熟だと思いますが、読書体験としてはわりと奥手なほうだったと。

外山:その後、21歳くらいで政治的な活動に行き詰まったところで、『オルガン』という雑誌に結集してた人たちーー竹田青嗣さんや笠井潔さんの本にたまたま行き当たって、ポストモダン思想なるものの存在を知りました。彼らは日本のポストモダン論壇の反主流派のような人たちなんだということは、後から知るんですけどね(笑)。

■笠井潔と絓秀実の違い

『対論 1968』 (集英社新書)

ーー確かに、初期の外山さんは実存的な文章を書かれていたので、吉本隆明の流れを汲む竹田さんたちの思想に馴染みやすかったのかもしれませんね。そこから、例えば絓秀実を読んでちょっと違う立場になっていく?

外山:絓さんと初めて会ったのは2005年で、20代の僕はひたすら笠井潔の熱烈な読者でしたし、笠井さんの本には絓さんの悪口がしょっちゅう出てくるので、絓さんにはずっと反感を抱いていました(笑)。しかし、たまに偶然視界に入ってくる絓さんの短い文章や、あるいは共通の知り合いから伝え聞く絓さんの言動に関する噂がいちいち好印象で、90年代を通して徐々に「もしかすると立場的にかなり近いのかな?」と感じ始めるんです。

  とはいえ笠井さんの文章で、最初にとても度の強い色眼鏡を装着させられてますからね(笑)。実際どうなんだろうと不安も抱えつつ会ってみると、「こんなに話が通じるのか!」と。僕は遅れてきた全共闘を自認してるけど、全共闘世代とはやっぱり合わなかったんですよ、ずっと。絓さんに会って、まっすぐ共感できる全共闘リアルタイム世代の人に初めて出会えたと感激しました。

ーー それが2022年に刊行された笠井さん、絓さんとの共著『対論 1968』(集英社新書)につながるわけですね。外山さんにとって、笠井さんと絓さんの“違い”とは。

外山:前書きにも書いているように、二人とも内容的にはほとんど同じようなことを言ってるのに、単にお互いのキャラに反発し合っているのではないかと思います。例えば、笠井さんはいかにも党派の指導者って感じで、録音すれば機械的に活字に起こしてそのまま書籍化できそうな、演壇から滔々と聴衆に語りかけるような話し方をする人ですが、絓さんはいかにも無責任なノンセクトというか、会場からヤジを飛ばすような語りをする(笑)。

ーーその意味では、外山さんは壇上で演説もできる人ですが、スタンスとしては絓さんに近いのかなと。

外山:そうですね。原理論的な部分では、僕はいまだ笠井さんの圧倒的な影響下にありますが、確かに体質的には絓さんの側です。

■武器はとにかく文筆

『改訂版 全共闘以後』(イースト・プレス)

ーー2018年の大著『改訂版 全共闘以降』(イースト・プレス)もそうですが、近年の外山さんは筆が乗っていて、文筆家として最前線に来たという印象があります。

外山:いやいや、僕に文章を依頼してくる人は今もほとんどいませんよ。僕が都知事選に出たのは、「中森文化新聞」がらみのプチ・ブレイクから10年以上のブランクができて、ほとんど世間から忘れられている間に実はものすごい成長というか、画期的な思想転換を果たしてさえいたんですけど、忘れられた人のままではいかんともしがたいので、どうにかもう一度改めて世間の注目を集めなければいけない、と。

  私の武器はとにかく文筆ですから、単に目立ちたいとかではなくて、再注目された延長で外山恒一に本を書かせようという動きが出てくることを期待したわけです。あの政見放送を見れば、「こいつは文章が上手いんだ」とわかるはずなんですよ。

 同じ原稿を渡されたら私よりうまく話し言葉に乗せられる俳優や芸人はいくらでもいるでしょうが、あの原稿を書くことができるのは私だけでしょう。

  僕としては、僕の文筆の才能をものすごくわかりやすくプロモーションしたつもりだったんですけどね。しかし出版界はまったく無反応。もう日本の出版界は死んでいるんだと思い知らされましたが(笑)、つまりまず知名度を上げて、次に著作が出始めて……というプランの二の矢がなかなか放てなかった。相変わらずこちらからの持ち込みで『青いムーブメント』(彩流社)という本を都知事選の翌年に出しましたが、その後も国政選や都知事選など大きな選挙で、原発推進派の選挙カーを街宣車で追っかけ回したり、逆にほめ殺しをしたり、立候補してないのに〝ニセ選挙カー〟を出して候補者まがいの街頭演説を繰り返したり、いろいろ派手なことをやって話題を提供してみても、それらのパフォーマンスが面白がられるだけで、外山に本を書かせようという話はまったく出てこない。



  最近続けざまに本が出るに至る突破口になった2017年の『良いテロリストのための教科書』にしても、やっぱり僕の側から版元の青林堂にコンタクトをとったんです。「とりあえず話ぐらいは聞いてあげましょう」って感じで、最初のうちはむしろ「反日極左が来た!」と警戒されてる雰囲気でしたけど、いかに僕が左翼というものを憎んでいるか、一生懸命説明したら次第に警戒を解いてくれたようで、やがて社長が登場して、彼の一存で「よし、出そう」と。左翼方面では完全に〝ヘイト出版社〟という扱いになってる青林堂から僕が本を出すこと自体が面白いと思ったので、社長の機嫌を損ねないよう、装丁もタイトルもすべて社長の提案に従いました(笑)。タイトルも僕がもともと提案していたのは『愛国者のための左翼入門』だったんですが。

■笑いの要素を持ち込んだ理由

『良いテロリストのための教科書』(青林堂)

ーー『良いテロリストのための教科書』は架空のインタビューのような構成で、外山さんの持論に対する自己ツッコミが非常に面白いですね。外山さんの著作に一貫して思うのはユーモアがあることですが、どこにルーツがあるのでしょう?

外山:僕が20歳前後で駆け出しの活動家だった当時は、中核派だの革マル派だののいわゆる新左翼セクトが、すでに影響力は失っていたとしても、存在感はまだかなり大きかったんです。過激な主張のビラをまいたりすれば、すぐどこかのセクトだろうと誤解される。「どうも違うようだ」と一発でわからせるには、笑いの要素を持ち込むのが一番手っ取り早かったんですよ。小学校高学年の頃に漫才ブームで、お笑いはもともと好きだったし、同世代の活動家にはお笑い志向の人がけっこう多い。

  だめ連の人たちや松本哉なんかも、最近死んでしまった〝社会派エロマンガ家〟の山本夜羽音もそうだし、今は僕とは敵対関係になってる元同志の矢部史郎の文章にもお笑いの要素は濃厚にある。僕らの世代の活動家で生き残っているのはそういうタイプがほとんどで、〝芸風〟はそれぞれ違うにしても、みんな芸があります。

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