マイケル・ジャクソンが“観る音楽”を発明した真意とは? プロダンサー・TAKAHIROが読み解く、孤高の天才の創造力と人間性

 映画『Michael/マイケル』が公開され、マイケル・ジャクソンの音楽・パフォーマンス、そして人生に大きな注目が集まっている。没後17年、今なお世界中のシンガーやダンサーに多大なる影響を残し続けているマイケルだが、プロダンサー・TAKAHIROもそのひとり。アメリカの『Showtime At The Apollo』で前人未到の9大会連続優勝を果たし、マドンナのバックダンサーに抜擢された経歴を持つTAKAHIROは、櫻坂46をはじめ多数のアイドル・アーティストの振り付けを担い、プロダンスリーグ『D.LEAGUE』の審査員や『それSnow Manにやらせて下さい』(TBS系)の審査員も務めるなど、様々なフィールドでダンスの魅力を発信し続けている。

 そんなTAKAHIROから、マイケル・ジャクソンという“人”はどのように見えているのだろうか。マイケルが残した偉大な功績の数々、その意義について、ニューヨークで生活していたTAKAHIROならではのダンス観もまじえながらたっぷり語ってもらった。(編集部)

特集:マイケル・ジャクソン

映画『Michael/マイケル』の大ヒットに伴い、マイケル・ジャクソンに大きな注目が集まっている。 1969年に弱冠11歳…

“スペシャリストにしてジェネラリスト” マイケルを手本に進んだNYでの学び

ーーまずは映画『Michael/マイケル』の感想をお聞かせください。

TAKAHIRO:一人の人間が成し遂げる人生の偉大さ。要約すればそうなります。ドキュメントとして数々の記録に残された事実から、ご本人の記憶にある真実を観る者に想像させる時間まで、息つく間もないほど集中しました。観賞後にもう一度、曲を聴いたりパフォーマンスを観返したりしましたが、そこでもまた時間を忘れました。ニューヨークのハーレム地区で過ごした若かりし日の自分を思い出してみたりもしました。

ーー高校3年生のとき、同級生から借りたマイケル・ジャクソンのビデオがTAKAHIROさんの心を動かしたんですよね。

TAKAHIRO:『Dangerous World Tour』(1992〜93年)のライブ映像でした。ダンスを本格的に始めるのは大学に入ってからなんですが、そこでも運命的な出会いがあって。在学中、家庭教師のアルバイトをしていましたが、その生徒さんの家にはマイケルのあらゆる記録映像がビデオで揃っていたんです。当時ビデオは高価でしたからすごいラッキーだった。全部借りて観まくりましたよ。

 僕がやがてニューヨークへ渡ってアポロ・シアターの『アマチュア・ナイト』を目指したのも、マイケルが歩んだ道を手本にしたからです。The Jackson 5の時代にそのステージに立ち、プロとしてデビューを掴んでいる。そんなスターの登竜門ならチャレンジしたくなるじゃないですか。紛れもなくマイケルの影響です。ただしマイケルからの影響だけで僕のダンススタイルが完成してしまうのも不自然だし、もったいない。そこからいろんなダンスを観たり吸収したりしながら、ごちゃまぜのスタイルでアポロに臨みました。

ーーただ、それが裏目に出て、最初の2005年大会の予選では落とされそうになったと。しかしそこから前人未到の9大会連続優勝(2006年『Showtime At The Apollo』)へと繋がります。何があったのでしょうか。

TAKAHIRO:「それのどこがヒップホップなんだ」と最初に叱られたんです。でも、別の審査員が救いの手を差し伸べてくれました。「ちょっと待って、彼のムーブはファニーじゃない? いいわ、あなたの生きてきたスタイルはそのままに、ヒップホップをリスペクトできる作品に作り替えることができるなら第一回戦に出場させてあげる」と。それでアポロ・シアターの側の黒人街に住んで生活してみたんですね。その当時の僕はヒップホップをファッションだと勘違いしていました。3本ラインのスニーカーを履き、ゴールドのチェーンを首から下げているのがヒップホップだと。だから、本番までの時間をハーレムで過ごして、生のヒップホップを体験することにしたのです。するとあらゆる現実が見えてくる。

 印象深かったのが、街の真ん中にブラウン管のテレビが持ち出され、取り囲むように多くの人が観ていることです。大昔の話じゃなく、2000年代ですからね。それに黒人だからといって、踊りが得意というわけでもなければ嫌いな人だっている。それでも街を歩けばグラフィティアートが目に飛び込んでくるし、軽快な音楽も流れてくる。あぁそうかと、自分なりの答えがそこで出ました。ヒップホップというのは、最小限のもので最大限に表現するアートフォームであるということが。単に服を羽織るようにコーティングするものではなくて、彼らにとってヒップホップはカルチャーであり生活そのものだということです。

ーー審査員の助言「自分のスタイルでヒップホップに作り替える」というのは、むしろ難題でもあります。例えばマイケルが、あるリハーサル中、バックアップダンサーにさりげなく修正を入れる映像がありますが、彼の所作はその審査員の言葉にも通ずるように思いました。TKAHIROさんの振り付けにも、振りを“付ける”という一方的なものではなく、相手の長所を引き出すことが重要だという哲学があったはずですよね。

TAKAHIRO:そう言えるかもしれないです。単純に繋げられる話ではありませんが、マイケルもヒップホップレジェンドではなくワールドフェイマスを目指していた。自分たちのプライドを失わずに相手のルーツも大切にしています。“受け入れる力”と“発信する力”を同じように持っているのでしょう。僕も最初は「自分が自分が」と思って踊っていたけど、相手がいるということをアポロ・シアターで学びました。

 スペシャリストであれ、そして、ジェネラリストであれ。スペシャルじゃないとそもそも見てもらえない。でもみんなとの共通言語もたくさん持っていないと、その先で手を繋ぎ合うことが難しい。意思の疎通がしやすい日本の環境ではなかなか体験できないことでした。ニューヨークやロスでは隣にはまったく別の人種の人が暮らしていますからね。それぞれが違うルーツを持ちながらも、そういったいろんな方と物作りをしていくためには多くの共通言語を持っている必要がある。なので、ジェネラルな部分もすごく大事だなと思うようになりました。

ーー2015年に帰国するまでTAKAHIROさんは10年ニューヨークに住んでいました。マイケルの訃報(2009年6月25日)もニューヨークで知ったのでしょうか?

TAKAHIRO:いいえ、ロンドンでした。マドンナのツアーリハーサル中で、O2アリーナの本番に向けて最終の作り込みをしていました。このライブ会場で、僕らの前にブッキングされていたのがマイケルだったんです。生前、最後のライブになると語っていた『THIS IS IT』ですから、余計に感慨深い。マドンナも僕らももちろんマイケルが大好きだったので、哀悼の意を示せるようなステージにすることを急きょ決めて、一緒にツアーをまわっていたケント(・モリ)くんがトリビュートダンスをそこで披露しました。ちなみに、そのときの振り付けチームであるリッチー&トーンが映画『Michael/マイケル』も担当しています。

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