クレッガー版『バイオハザード』が成し遂げた「再翻訳」の意味 ビデオゲームの“原罪”をホラーで伝えるということ
ゲームみたいな映画でゲームプレイヤーへとなっていくこと
さて、クレッガー版『バイオハザード』を、ゲームプレイヤーになることについての映画と読んでいくと、どうなるのか。
これまで繰り返し強調してきたように、サバイバルホラージャンルにおいては、弾丸などのリソースの管理に常時気を払わねばならない。つまりは、武器をどの場面でどんな敵に用いるのか、という計算がついてまわる。この世界において、プレイヤーから見たゾンビはゾンビではなく、算数の文章題から変換された数字にすぎない。あのザコ村人には6発。あのチェーンソー男には30発。その自前の計算すら疑いつつ、場面ごとの戦闘ではなく、大きな流れのなかでどうやりくりしていくか。
その意味では、序盤のブライアンはあまりゲームにこなれていない。つまり、一部のゾンビを人間として見なしてしまっている。彼はラクーンシティに向かう途上で、ゾンビを轢いてしまう。しかし、そのゾンビをちょっと様子のおかしい中年女性としか認識しておらず、なんとか病院へと運ぼうとする。また、本格的にゾンビの脅威に直面したあと、別の場所である感染者に出会うのだけれど、そのひとのことも「人間として」助けようとする。
なにより、本作では『バイオハザード3』の追跡者よろしく、劇中を通してブライアンにまとわりついてくる本作オリジナルの強敵。これが人間たちや他のゾンビを取り込んで群体となるという設定を持っており、中年女性ゾンビをはじめとしてブライアンに関わってきた「かつて人だったものたち」を取りこみながら強く大きく膨らんでいく。何人もの人体が連結したその姿はまごうことなき異形なのだけれど、ブライアンはその体表に自分の見知った顔が人のまま残っているのを目撃し、たじろいでしまう。
ゾンビとは人の形を保ったまま、人でなくなった存在だ。人間がその形を保ったまま、モノとなっていくプロセス、それはつまり「死」そのものだ。
本作の物語が巧みなのは、ブライアン自身が恋人の妊娠、つまりは誕生という死とは逆の過程を突きつけられているところだ。主人公が似たような鬱屈を抱えていた映画版『8番出口』では、あの無機質な駅の通路を産道に見立てていたけれど、『バイオハザード』は『バイオハザード』なのでそこはアンブレラ社所有のビル(病院)になる。
そうなると『8番出口』のように父親(大人)としての自覚を得て次のステージへと踏み出したり、あるいは新しい命が誕生することを祝福する方向へと向かいそうなものだけれど、本作ではそんな安心できる落着をゆるさない。なぜなら、これはゾンビ映画だからだ。死がすべてを呑み込んでいくホラージャンルだからだ。ラクーンシティでは、あらゆる命が呪わしく在る。
そうして、「死そのもの」と相対していくうちに、また自らもゾンビに噛まれて身体が作り替えられていくうちに、ブライアンの世界の見方も変質していく。彼はあるゾンビの特殊能力を逆手にとって武器として利用し、ゾンビに対して「モンスターめ」と罵るようになる(そこでそのゾンビが見せる挙作が他より「人間らしく」なるのが皮肉めいている)。
しつこくまとわりついてくる群体ゾンビに対しても、ついにそこに人であったときの痕跡を二度と見いだすことはない。それをビルの高層から撃ち落として、彼はこう叫ぶのだ。
「ビデオゲーム万歳!(VIDEO GAMES!)」
哲学者でビデオゲーム研究者のイアン・ボゴストは「ビデオゲームは、現実のシステムや想像上のシステムのモデルである」と説明した。ボゴストの立場としては、だからこそゲーム上のメカニクスを通じて現実に存在する事象や社会問題をプレイヤーへ効果的に伝えることもできる、つまり、現実を理解する手助けになる……というものだ。
けれど、逆の作用もまたあるのではないか。つまり、ゲームはゲームにすることによって、モノや人のすべてを数字と効率、取引として感覚させてしまう。そういう無邪気な原罪が、ビデオゲームというメディアには宿っている。もちろん、ひところに「ゲーム感覚で~」という枕詞で繰り広げられた安直なゲーム批判とは異なり、ほとんどのプレイヤーはその感覚をゲーム外へ持ち出したりなどはしないだろう。が、ゲームの内部へとのめりこんでいる最中には、ある。それこそがゲームに対する熱中や中毒の感覚であるともいえる。
そして、うまく“攻略”しえたはずのブライアンは最終的にそんなゲームに、サバイバルホラーに、ゾンビ映画に、『バイオハザード』の世界に呑み込まれていってしまう。
クレッガーは、みごとにゲーム『バイオハザード』を映画へと再翻訳した。それも、ボディホラーや「生まれてくる子どもに対する恐怖」というホラーの古典的な題材、そして彼の出身であるコメディとうまく絡ませる形で。
映画監督のギレルモ・デル・トロは、かつて「ホラー映画とは、人があまり直視したがらず、大人が語りたがらない真実を語るものであり、それは世界の理解や癒やしに有用なのだ」と説いた。人間の抱える口には出していえない後ろめたさを異形や物語に託すジャンル、それがホラーだ。ならば、ビデオゲームのホラー映画が、それも『Resident Evil(内なる悪)』という英題を持ったタイトルが、ビデオゲームの後ろめたさを語るのはある種の宿命だろう。クレッガー版『バイオハザード』は、その点で類を見ない達成を果たしているのではないか。