『レッド・デッド・リデンプション2』はなぜ「現代の西部劇」なのか 映画的側面から読み解く

 『レッド・デッド・リデンプション』シリーズに描かれる世界のベースにあるのが西部劇映画だということは言うまでもない。本作の冒頭で『幌馬車』で描かれたような厳しい山越えをフィーチャーしているのには、西部劇の根本精神に立ち戻り、新たに一から、本質的に「西部劇」をゲームのなかで作り上げようという、強い意図が感じられるのだ。

 そもそも「西部劇」とは多くの場合、開拓時代のなかで、警察の手が足りず強盗などの犯罪が横行したり、拳銃による決闘などが行われていたアメリカを舞台に描いた映画ジャンルのことだ。アメリカやイタリア映画、TV番組で、ジョン・ウェインやヘンリー・フォンダ、クリント・イーストウッドなどの西部劇スターが生まれ、スーパマンなどの新しいヒーローが現れるまで、アメリカはもちろん日本を含めて、西部の英雄は子どもたちのあこがれの存在だった。

 だがそんな西部劇も、時代とともに姿を消していき、現代で以前のような意味での西部劇映画が作られることはほとんどなくなった。それは、現代のグローバルな価値観のなかでは描かれる思想が時代遅れであり、倫理に反する部分もあまりにも多いからだ。アメリカの歴史をそのまま描いてしまうと、「開拓精神」などと言って胸を張ることができなくなってしまう。『駅馬車』(1939年)などで先住民が野蛮な襲撃者として登場するなど、男女差別や人種差別が激しい描写を、現代の文化のなかでヒーローとして表現したり、カタルシスを発生させることは難しい。『マンディンゴ』(1975年)や『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)のように奴隷制度による悪魔的描写や、奴隷制終了後も継続する階級的なシステムの上であぐらをかいていた白人たちを描いた作品は、白人が作り白人が消費してきたアメリカ映画史のなかでは例外的である。

 「開拓」とは、違う言い方をすれば「侵略」や「破壊」となる。アメリカ先住民、奴隷や被差別者としての黒人、そして白人であっても虐げられてきた女性たちからすれば、ヨーロッパから入植してきた白人、そして男性たちは簒奪者であり虐殺者であり搾取者であり差別者であり虐待者なのだ。

 『真昼の決闘』(1952年)や『大いなる西部』(1958年)は、そんな残忍で野蛮な西部の荒れた世界のなかで、比較的現代的な公平性を持っている主人公が孤独な戦いを余儀なくされる、ある意味でディストピア的要素を持った西部劇である。これらの作品は西部劇の世界を否定することで、娯楽映画として成立しているといえよう。そのような時代の流れに対し、あくまで西部劇の世界や開拓精神をおおらかで価値のあるものだと主張し、時代を逆行させるカウンターとして撮られたのが、『真昼の決闘』同様のシチュエーションを異なったアプローチで表現した、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)だった。ここでは保守的なジャンルである西部劇にも、リベラルと保守の区分けができることを意味している。

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