『オデュッセイア』から読み解くノーランの“子ども性” 誰よりも真剣に遊ぶ映画監督の素顔
クリストファー・ノーランの最新作『オデュッセイア』は「驚き」に満ちた映画だ。本作を観終えて、まず浮かんだのはそんな率直な感想だった。
1991年生まれの私は、ノーランに自然と慣れ親しんできた世代だ。高校生のときに『ダークナイト』(2008年)が社会的大ヒットとなり、続く『インセプション』(2010年)の熱狂もよく覚えている。その後、『フォロウィング』(1998年)や『メメント』(2000年)といった時制操作に特化した初期作から、『インターステラー』(2014年)や『TENET テネット』(2020年)のようなSF的想像力を存分に発揮したものまで、ノーランの全作品を観て、それなりに楽しんできた。しかし、なぜだかわからないのだが、ノーランの映画を心から好きだと言い切るには何かが欠けていた。
ノーラン作品の卓越した時間表現や緻密な物語構造を挙げて彼を称賛する論者たちにはいまひとつ乗りきれなかった。かといって反対に、「説明過多だ」「アクションが撮れない」「演出が下手だ」という否定的な意見にある程度は頷きつつも、それでもどこか物足りなさを覚えていた。
しかし『オデュッセイア』は、私自身がノーランに抱いてきたイメージを更新してくれた。端的にいえば、ノーラン映画の「楽しみ方」を教えてくれる作品だった。前作『オッペンハイマー』(2023年)を経て、戦争と人間の罪に正面から向き合った本作に、ノーランが「大人の作家」として一皮むけた姿を見る意見はすでにあり、それ自体に異論はない。だが、すでに多くの人が語っているその見方とは別に、本記事では『オデュッセイア』から読み取れるノーランの「子ども性」に注目したい。それは、ノーランを知性派の監督として見るよりも、「誰も見たことのない画を見せたい」という、至極シンプルで、ある意味では子どものように純粋な彼の資質に目を向けることだ。
「これはどうやって撮っているの?」という驚き
『オデュッセイア』は、トロイア戦争を終えたオデュッセウス(マット・デイモン)が、妻ペネロペ(アン・ハサウェイ)と息子テレマコス(トム・ホランド)の待つ故郷イタケを目指す、10年にわたる帰還の旅を描く。ただそれだけである。過去と現在がときに交互に描かれはするものの、観客が筋に最終的に迷うことはないだろう。
オデュッセウスらは行く先々でさまざまな怪物や出来事に遭遇する。なかでも印象深いのは、一つ目の巨人キュクロプスが登場する場面だ。食糧に窮してとある島に上陸したオデュッセウスらが羊を追っていくと、キュクロプスが住んでいる洞窟に行き着く。『バットマン ビギンズ』(2005年)を見ればわかるように、ノーランは洞窟のような暗くて狭い空間を好んで撮っており、しかもそれが上手い。だが、やはり驚くべきはキュクロプスの造形だろう。ゴヤの《我が子を食らうサトゥルヌス》を下敷きにしたキュクロプスは、単眼を横倒しにした異形の顔をもつ。その姿は、巨大なパペットやアニマトロニクスに道化師ビル・アーウィンの演技を重ね、さらにデジタル処理を施して生み出されたものだ。ここで強調したいのは、こういった制作過程を知った上でも、どこまでが実物でどこからがデジタルなのか、その境目を知り得ないことである。だからこそ観客は、物語の意味を考えるより先に、「普通のCGとはちょっと違うように見えるけど、どうやって撮っているの?」と目を見張ってしまう。『オデュッセイア』の魅力の多くは、じつはこうした視覚的な驚きにある。
もう一つ、忘れがたいのは冥府の場面だ。霧に包まれた黒い砂のなかから、黒衣の死者たちが次々に這い出し、オデュッセウスらと対面するシーン。この場面は、アイスランド南岸の黒い火山砂の海岸で、白夜のもと撮影された。地面から這い出す死者たちを演じたのは、実際に砂の下に埋まり、細い管で呼吸していたスタントマンたちだった。物語の上でも、シノン(エリオット・ペイジ)が語る死者への責任を問う言葉は重要であり、『オッペンハイマー』が人類の罪を主題にしたことの延長線上にある。つまり本作は、人類の罪を古代ギリシャにまで遡って問おうとしているのだ。だが、そんな大それた企て以上に私の目を惹いたのは、死者や預言者テイレシアス(ジェームズ・レマー)の衣装の黒さそのものや、泥と血が混じったようなメイクアップといったヴィジュアル的なインパクトだった。このシーンで撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマのカメラは、霧や砂、液体や光といった物質の魅惑を見事に画面に定着させている。
巨人キュクロプスも、冥府も、そして魔女キルケー(サマンサ・モートン)がオデュッセウスの部下たちを豚に変えてしまう場面も、映像からはかなりアナログな質感が伝わってくる。CGが当たり前になったいま、本作は、かつて映画に「これはどうやって撮っているの?」という体験があったことを思い出させてくれるのだ。