『海のはじまり』が描く“家族”という概念に対する柔軟な視点 木戸大聖の自然な演技が光る 

 人は事実を隠すという行為について、「後ろめたさがある」から隠すのだろう。しかしそれだけではなく、誰にもバレずに「隠し通せる」と無意識のうちに思っているからこそ、隠すのかもしれない。その結果、たとえそこに悪意がなくても、誰かを傷つけてしまうことがある。そんな“隠す”という言葉の重みを考えさせられた『海のはじまり』第5話。

 第5話は、月岡夏(目黒蓮)が1週間の夏季休暇を取得したことから展開する。この知らせを聞いた南雲朱音(大竹しのぶ)は、夏に南雲家で過ごすことを提案。もちろん、海(泉谷星奈)は、この提案に大喜び。「ずっと住んでいいよ!」と無邪気に夏にくっついてはしゃぐ。

 しかし、夏はまだ実の両親に海のことを伝えていない。朱音に「さっさと話しなさいよ」とせっつかれても、夏はどこか煮え切らない態度。そんな2人のやりとりを見ていた海が「ママみたい」とクスクス笑う場面は、どこか水季(古川琴音)と重なる部分を持つ夏と、やや口うるさいところのある朱音が、徐々に家族としての形を作り上げていく過程を巧みに表現しているように見えたのではないか。

 第5話では、「家族」という概念に対する柔軟な視点が印象的に描かれていた。夏が弥生(有村架純)の髪で三つ編みを練習するシーンの「自分で自分のことやるのがどんどん上手になった」という弥生の言葉は、彼女の複雑な家庭環境を想像させ、観ているこちらの心に微かな痛みを与える。しかし、この瞬間にこそドラマの本質が凝縮されているのかもしれない。

 本作は、血縁や法的な関係性だけでは語れない、「家族」のあり方を静かに問いかけている。家族を大切にしている夏が言う「嫌いでいいよ、親だって人だし」という家族を大切に、弥生は救いを感じたのではないだろうか。登場人物たちの感情や選択を通じて、「正解のない家族の形」について考えるきっかけを与えてくれるところが、『海のはじまり』が他の家族を描くドラマと一線を画す“味”でもある。

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