『毛虫のボロ』が成し遂げたことの意味とは? 宮崎駿監督による“紛れもない本気の新作”を徹底考察

「物語」−生まれてきてよかったね−

 本作には、ハッキリと順序だったストーリーの流れや、成長物語による分かりやすい感動のようなものは希薄だ。その意味では、観客によっては期待がはずれてしまうかもしれない。しかし、ここにこそ本作の凄さが表れているといえる。

 『もののけ姫』が公開された1997年は、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が同時期に上映されていた。それは、『風の谷のナウシカ』で巨神兵のシーンを担当した庵野秀明監督との、ある意味での「師弟対決」であった。もともとの公開規模の差もあり、興行収入においては『もののけ姫』が圧倒的な勝利を収めたが、純粋にアニメーション作品としての内容はどうだったかといえば、総合的な完成度では『もののけ姫』に軍配が上がるものの、少なくとも表現の新しさという面では、『エヴァンゲリオン』の方が数歩先を進んでいたように、私には感じられた。比較すると『もののけ姫』は、非常によく出来たクラシックカーのように古ぼけて見えてしまったのだ。このことがあり、私は宮崎作品はその後、アニメーション作家としては低迷を余儀なくされるのだと思っていた。

 だが次作となる『千と千尋の神隠し』によって、その予想は大きく覆された。具体的に言うと、千尋が列車に乗って移動するシーンで、宮崎監督の作家として残されていたポテンシャルが一気に花開き、大幅に奥行きが与えられたように感じたのだ。

 『千と千尋の神隠し』に登場する施設「油屋」は、上階に事務所を置く経営者・湯婆婆(ゆばーば)によって支配されている。この縦構造は、『未来少年コナン』の“インダストリア”における、『メトロポリス』や『やぶにらみの暴君』などを想起させる、ディストピアでの反乱を描くプロレタリア的な世界観だ。対比される農業国“ハイハーバー”は、その裏返しの存在に過ぎない。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あるべき“権力の打倒”が描かれないばかりか、千尋が列車に乗った以降は、そのような構造が一気に崩れて、観客は物語の行方を見失うことになる。それは、あらかじめ用意されたテンプレートやカタルシスを、宮崎監督が意図的に排除したためだ。その試みは『崖の上のポニョ』でさらに深化し、宮崎監督は、優れたアニメーション作家であると同時に、優れて個性的でアヴァンギャルドな映画作家にもなったのだ。

 『毛虫のボロ』では一応、悪役らしき存在が登場する。宮崎監督が「無人攻撃機」と表現する、毛虫を狙う不気味なカリウドバチや、カマキリのような昆虫である。だがこの物語では、そんな肉食の昆虫たちが、毛虫の仲間たちの協力によって成敗されたりすることはないし、ボロが美しい蝶に変身するというような、よくある展開が訪れることもない。それは勧善懲悪の物語で感動を呼び込むという安易さを嫌った結果であり、対立を描くような文学的テーマのために映像を従属させたくないと考える、宮崎監督の現在の作家性によるものであろう。

 宮崎監督は、『崖の上のポニョ』を作る前に『虫眼とアニ眼』 (新潮社)での対談でこう述べている。

「生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした」

 ボロが空気を吸い、陽の光を浴びて、葉っぱを食べる。そしておそろしい昆虫たちに絶えず命を狙われるなど、様々な体験をするワンダーランドは、カメラを引いて俯瞰でとらえると、じつは何の変哲もない住宅地のなかの畑だったことが分かる。官能的に美しい葉緑体の動きも、カリウドバチの不気味な姿も確認できない。しかしそれらは間違いなくそこに存在するものなのだ。

 そういうものを発見して喜ぶことができる眼を、おそらく人間は本来持っていたはずである。だが功利主義的な社会の中で成長していくことで、人は自分の利益にならないようなものは見なくなっていく。そしていつしかそんな世の中に失望し、「生まれてこなければ良かった」と思うことがあるかもしれない。しかし、我々が捨ててきた世界のなかには、美しい光景や多様な価値観が、もっともっとあったはずなのである。

 『毛虫のボロ』は、そんな「世界」を、これまでにない圧倒的な表現で示してくれることで、観客に生きる力を与えてくれる、宮崎駿監督の作品の中でも、とくに傑出したアニメーションである。この14分を体験するために、ジブリ美術館まで足を運ぶ価値は十分にある。本作を観て美術館の外に出れば、そこには新たな「世界」が広がっているはずだ。

※宮崎駿の「崎」は「たつさき」が正式表記

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『毛虫のボロ』
三鷹の森ジブリ美術館にて上映中
入場は日時指定の予約制で、 チケットはローソンでのみ販売。
・毎月10日より、翌月入場分のチケットを発売。
・7月・8月入場分のチケットは、先行抽選販売を実施予定。
ジブリ美術館の映像展示室「土星座」のみで上映。
・3月21日(水・祝)~8月31日(金)上映予定
(c)2018 Studio Ghibli
三鷹の森ジブリ美術館公式サイト:http://www.ghibli-museum.jp/

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