菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第2回(前編)

日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く

「リアル」な黒社会。を日本は映画に出来るか?

「リアル」「フェイク」「アンリアル」「ファンタジー」といった現実感との位相は、映画のみならず、あらゆる虚構の基底部を決定する重要な同一性ですが、最近、山口組系のもめ事がテレビのニュースで、ほんのちょっとだけ流れて、実際の関係者が、ほんのちょっとだけ写りましたが、その「リアル」さには、本当に惚れ惚れします。日本にもまだ「本物」はちゃんといるのだ。これは任侠礼讃とかいったシンプルな話ではなく「日本人、そして日本の役者の顔つき」の話なんですね。

 かつて、日本もワイルドで荒んでいた60〜70年代には、『仁義なき戦い』などのクラシックスがあって、そこに出てくる菅原文太さんたちの顔つきはリアルだった訳です。

 『仁義なき戦い』だけをどうこう言ってるんじゃありません。これはリアルの話なのね。『アウトレイジ』っていうのは、良い意味でそこを完全に見切っちゃって、パロディ、クリーチャー、妖精としての「悪の顔」をいっぱいならべて、さあお楽しみください。と。

 あれが今、日本でヤクザ映画を作る上限でしょう。「フェイク」とか「アンリアル」とかでもない、あれは完全なファンタジーです。『指輪物語』とかと変わらない。

 これは悲観論でも楽観論でもないけれども、今の日本の娯楽映画で「リアル」であろうとする限り、それは高い確率でオタクの映画にならざるを得ない。たとえば最近では『バクマン』とかね。同じ大根さんの『モテキ』でも何でも良いけど、オタクを描いていくというのが、良くも悪くも今の日本のリアリズムのマジョリティであって、ジャパンクールのメインコンテンツですよね。

 後はフェイクになるか、アンリアルになるか、ファンタジーになるか、いずれにせよオタクという最強のリアルを扱わない、としたら、「リアル」の強度自体をある程度捨てて、その上でベストを尽くさないといけない。「ダメな映画」というのは、非常にシンプルに、それが出来ていない映画の事です。

 オタクや引きこもりが一人も出てこなくても、スマホもゲームも画面に一切映らなくとも、良質でリアルな日本映画もあるわけでし、逆もまた真なりで、マンガ原作で、アイドルが出る。こんなもん純度100%のリアルなジャパンクールなんですが、そこから『るろうに剣心』みたいな傑作も生まれる可能性もあるし、駄作も死屍累々でしょう。ただ、リアルかフェイクかファンタジーかは、マーケットの質も規模も変わってしまう。

 と、前置きが長くなりましたが、そうした状況へのアゲインストとして地下でマグマ化したものがドワーと噴出する瞬間があって、本作もそのひとつなのでしょうが、冒頭に書いた通り、これは批判でも称揚でもなく、『木屋町 DARUMA』は、相当高い確率でジャパンクールのアンチだと自己規定していると思いますが、実際はガチガチのジャパンクールだという事です。それがこの作品の総てだと言っても良い。

 話がまたそれますが、四肢欠損者の人生を描いた映画というと、若松孝二監督の『キャタピラー』(2010年)が思い出されるわけですが、というか、それ以外思いつきませんが(笑)、あれはジャパンクールじゃない。あれは時折出てくる「和式グランギニョル」です。グランギニョルというのはフランスの残酷劇の事ですが、寺島しのぶさんは名誉フランス人ですから、グランギニョルの主役に適役です。

 え?他の和式グランギニョル?『佐川君への手紙』とかね。映画になったっけあれ?(笑)まあ、なってないとしても(笑)。それこそ「東京グランギニョル」という劇団を率いていた飴屋法水さんの「ライチなんとかクラブ(飴屋さんスンマセン・笑・怖くてタイトルが憶えられない)」なども、そのジャンルに入るかどうか問われるでしょう。

 それに比べると『木屋町 DARUMA』は、近松門左衛門から四谷怪談から腹切り女浄瑠璃から花園神社の蛇のみ女か『実話ナックルズ』から『神様の言うとおり』までを貫く「やりすぎ」と「空虚」の伝統の中にあります。

 「ちょっと待ってくれよ。こっちゃあ、男の世界を描いてんだよ。マンガ原作の学園ものなんかとと一緒にしないでくれよ」と言われるかもしれません。御説ごもっとも、それはその通りなんだけれども、前述の、「やりすぎ」と「空虚」が、「男の世界」「その美しさ」を描こうとするあまり、自走的に行き過ぎちゃってるんですよね。

 実話物で、オタクなんか入る隙もない男の世界を描こうとしても尚、気がつくとジャパンクールになる可能性がある、というより、あくまでワタシ個人は、ですが、歌舞伎や浄瑠璃や神話の類いもジャパンクールに含んでいるので、カテゴリーが広過ぎるかもしれませんけれども。

「やりすぎ」の数々

「やりすぎ」が往々にして引き起こす効果の一つですが、「笑ってしまう」という状態も引き起こします。<借金取りが四肢を欠損者を債務者の家に住まわせる事で、気も狂わんばかりの状態に陥れ、金を取り立てる>というのは、もう、このあらすじだけ聞いた人で、ちょっと吹いてしまう方もいるかもしれないし(勿論、震え上がってしまう方もいるかも知れませんが)とはいえ、「やりすぎ」ないのであれば、それによる笑いは絶対に起こりません。

 そしてこの物語は「リアル」であること、それはつまり、シリアスであること、ジャパンクールなんかかじゃないこと、等々連合的に保証する担保として「実際に実話を元にした原作なんだから」の一点突破で行こうとするんですが、これは原理的にリアルの担保になるとは限らないんです。

 物語というのは、前述の視点を基軸にしても、最低4層に別れます。

1)「誰の身にも起こりうる虚構」
2)「誰の身にも起こりうる実話」
3)「いやあオレには関係ないよこんな話。という虚構」
4)「いやあオレには関係ないよこんな話。という実話」

 です。

 宮沢りえさんの『紙の月』なんかが(1)の代表でしょう(実際の事件ではないにしろ、相当な取材をしていますが)。

 (2)はいっぱいありますよね。幸せなカップルの片方ががんで死んだ感涙の実話ラブストーリーとかですね。

 (3)もいっぱいあります。映画で最も多いのが(3)じゃないでしょうか。『スター・ウォーズ』から『なくもんか』まで、何でも入っちゃう(笑)。

 そういう意味で『木屋町 DARUMA』は(4)なんです。

 だから、いくら現実を素材にしたセミドキュメントであれ、観客がリアリティに誘導されません。「へえ、こんな凄い事も世の中にはあるんだね。こわー」と思うばかりで、言ってみればガザやソマリアの映画と同じです。ガザやソマリアのがリアリティ誘導あるかも知れない位ですね。

 こうなると、作品の力点は、勢い「やりすぎ」と「空虚(自分の日常との関係なさ)」に偏ります(これは、連載前回からしつこく書いていますが「空虚」は、まったく悪事ではなく、ひとつの状況/価値観です)。厳密に言えば「やりすぎ」は「空虚」と相互補完的な関係です。空虚だからやりすぎる。やりすぎるから空虚感が漂う。

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