AI時代にわれわれと日本はどう生きていくべきか? 東浩紀×桂大介インタビュー後編
株式会社ゲンロンが毎月1回配信しているYouTube番組「東浩紀と桂大介のリベラルテック月報」(以下、リベテク)。ゲンロン創業者で思想家の東浩紀と、ゲンロンが主導して開発・運営する動画プラットフォーム「シラス」のCTOである起業家・エンジニアの桂大介が、思想とテックのふたつの目線で最新のAI関連ニュースを解説していく他にはない番組だ。
また、ゲンロンが主催する「ゲンロン友の会」では、リベテクの雑誌版とも言える『別冊リベテク』を昨年から配布しており、いま10月末までに入会すると『別冊リベテク2』をゲットすることができる。
インタビュー後編では、『別冊リベテク』の話題も交えながら、このAI全盛の時代にわれわれはどう生きていくべきかについて二人に聞いた。
日本のテック産業が向かうべき方向
――テックやAIの業界ではアメリカや中国が強いという現状があるなかで、国産AIも含めて日本のテック産業はどういう方向に向かっていくべきだと思いますか?
桂:まず、いまの中国のLLMの強さは基本的に「人が強い」ことにあります。シリコンバレーにだってもともと中国人は多かったですし、いまのビッグテックのトップも中国系が多い。わかりやすく中国のLLMが台頭してきたのはここ最近ですが、IT産業における中国の強さは10年単位で培われてきたものなわけです。
そして、日本がそこに正面切って戦いを挑んで勝つことは流石に厳しい。人だってお金だって計算リソースだって足りません。でも、だからと言って歩みを止めてはいけないと思います。リスクヘッジという意味で、我々の取るべきオプションはたくさんある。文部科学省や国立情報学研究所(NII)がやろうとしている人材育成のプロジェクトも進めるべきだし、国産のLLMを作ることも推進するべきだし、アメリカや中国のオープンウェイトをうまく安全に利用できる技術も開発していくべきです。「この道を行けばいい」というよりも、とにかくこの産業に携わる人間の数を増やして複数の経路を確保していかないといけない。
そのなかで気になるのは、国産LLMの開発に対して批判的な目で見る風潮が強いことです。つまり、「どうせアメリカや中国に勝てるわけがないだろう」と発想が狭くなっているひとが多い。いま日本が考えるべきは、「どうやってオープンAI(OpenAI)に勝つか」みたいな話ではなく、アメリカや中国といった国家であったり、あるいはどこかのAIベンダー1社にすべての主導権を握られてしまうのを防ぐことで、それはさきほど言った“自由”の話とも直結する。AIをブリコラージュして使うこともありで、実際にSakana AIがそういうことを試みていますが、それも「中国AIに乗っかっているだけの寄せ集めの技術だ」とか言ってすごく叩かれるんです。でも、寄せ集めでそれなりの性能が発揮できるのであれば、依存度を下げているわけだから素晴らしいんですよ。そういう発想に切り替えていくべきだろうと。
――いま日本でAI産業に携わっているひとを勇気づける内容で、ぜひ伝えていきたいお話です。
東:中国AIとの関わりについては僕も桂さんと同じ意見で、こちらがAIに使われずに使う側にいることが大事なのだと思います。これはマルクスの言った「疎外」の問題でもあります。疎外というのは要するに、自分が作ったはずのものがいつの間にか自分のコントロールが効くものではなくなり、逆に自分がその生産物の奴隷になってしまうという状況のことです。いまのAIをめぐる状況はまさにそうなっている。つまり、僕たちは何かやりたいことを実現するためにAIを作っていたはずなのに、いつの間にかAIに使われてしまっている。一時期プロンプトエンジニアリングという言葉も流行りましたが、それが行き過ぎて「AIが気に入ってくれる指示の出し方を探す」というところまでいくと、それはAIの奴隷になってしまっているわけです。さきほど前編で言った、「技術をブリコラージュして再発明しなければいけない」というのは、僕たちは技術の奴隷になってはいけないということであり、それこそがリベラルテックの“リベラル”が意味するものにもつながってくる。
ITは「ニッチ」を成立させるために使え
――ここからは『別冊リベテク』の話も伺っていければと思います。昨年刊行された第1号には東さんのインタビューが掲載されており「インターネットを普及させた20世紀最後の四半世紀はすごい時代だったが、21世紀始まって最初の四半世紀はダメな時代だった」という話をされています。これからの時代を良くするために、技術開発はどのような方向に向かっていくべきだと思いますか?
東:僕が言いたいのは、「どのような技術を作るか」というよりも、「どのように技術を使うか」が重要だということです。大きな視野で見れば、1970年頃から始まったIT革命やそれに続くいまのAI革命というのは、それこそ産業革命にも勝るとも劣らない人類史の大きな画期だと言えます。でも、僕たちはそこからまだ数十年しか経っていない。そういうなかで、技術の使い方がよくわかってない状態ではないかと思うんですよ。言い換えれば、僕たち人類は新しいおもちゃを与えられて大騒ぎしている状態にいまだにいる。
本来、インターネットはもっといろんなことに使えるはずです。たとえばいまは富の格差が急速に拡大しているわけですが、本当はインターネットがあることで開ける中小規模の経済圏がたくさんあるはず。
というか、具体的にはゲンロンがそうです。社員10人ぐらいの規模で思想や批評といったおそろしくニッチな分野の事業をやりながら、とりあえずは年間数億の売り上げを維持できている。そんな会社が成立しているのは、完全にインターネットがあるから。昔であれば、本を出版しても、まずは新聞などのマスメディアに大きく広告を出して書評が載らないと本屋に置かれないし、流通も大手の取次と契約して日本全国でばらまいてもらうしかなく、そのためにどう棚を確保するかみたいなことばかりしていた。そういった流通や広報の条件がネットの出現で劇的に変わったからこそ、ゲンロンは可能になった。ネットのテクノロジーを使えば、いままでの社会では埋もれていたニッチジャンルを活性化しながら生きていくことができる。メジャーに振り回されないで済む。そういう“使い方”が増えていく社会こそが良い社会で、自由な社会だろうと思うんです。
なので、テクノロジーに関するニュースも、本当はそういう試みをしている人たちに注目するべきだと思うんですよね。「◯◯が資金調達で◯◯億円を獲得」みたいな話ばかりではなく、「ネットの時代だからこそ可能になったこんなニッチなスタートアップがあるよ」というニュース。そういう可能性が多く知られていけば、人に希望を与えることができる。もちろんAIはいますごくお金が集まっているし、国家の安全保障にも関わるのでそこへの関心を失っていいというわけではないですが。そして、リベテク自体もなかなかそういう話はできていないのですが。
――たしかにそういうニュースがたくさん流れている社会は希望が溢れていそうで、聞いていてワクワクします。
東:古い例ですが、日本の同人誌文化は70年代以降に家庭用コピー機やオフセット印刷が普及したことで可能になったと言われます。印刷のコストが下がり、学生でも金を持ち寄れば500部とか1000部とかの雑誌を作れるようになった。そのことがコミックマーケットの拡大を生み出した。この話で重要なのは、コピー機やオフセット印刷を作った人がはじめからそういう使い方を想定していたわけではないということです。当時の若者たちが、コピー機やオフセット印刷の新しい使い方を勝手に発明して、新しい流通が勝手に生まれ、それがいまにまで続くような日本のアニメ・マンガ文化の隆盛を生み出した。ITやAIも本当はそういう使い方ができればいい。
――なるほど。桂さんは、いまITやAIの世界でそれに近い面白い技術の使い方で思い浮かぶ例はありますか?
桂:手前味噌ですけど、やはりシラスは昔であれば絶対に作れなかったものですね。この規模の会社が動画配信のプラットフォームを作るというのは、クラウド技術の発達によってサーバー投資のコストが格段に低くなったからこそ可能になったことです。そもそも日本では動画プラットフォームを作ろうという発想自体誰も持っていなくて、ほとんど唯一あったニコニコ動画もすごくお金をかけてサーバーを並べ、システムを作っていた。それが2010年代のクラウド技術によって手が届くものになり、それをまさにやっているという点で、シラスは「技術の使い方の再発明」を正しくやっているのかなと。
――『別冊リベテク』には桂さんも文章を寄稿していました。Google Chromeと文章ソフトのTeXのあいだに、ソフトウェアの更新に対する根本的な考え方の違いがあるという議論をされていましたよね。
桂:はい。Chromeは際限なく頻繁にソフトウェアのバージョンアップを行うことで覇権を握りました。いま多くのソフトウェアがこの更新観を引き継いでいます。それに対して、TeXは開発者であるドナルド・クヌースの考えのもと、ある時点からバージョンアップを行わず、いまは細かいバグ修正が追加で施されていくだけになっています。これはたんに前者が優れているというわけではなく、後者だとたとえば昔作ったファイルが問題なくレンダリングできたりするというわかりやすいメリットもありますし、それ以上に道具に対する思想的な相違もここにはある。つまり、後者は「ソフトウェアは完成して止まったものでないと道具として使えない」という思想なんです。これはアラン・ケイも同じことを言っていて、ある道具の使い方に習熟しようと思うのであれば、その道具は進化が止まっていないにせよ、ある程度緩やかにしか変わらないものでないと難しい。
これはAIの話にもつながっています。いまのAIは本当にすごい勢いで進化していくし、中身もブラックボックスになっている。だから、習熟しようとしてもそれが終わることがないし、習熟のレベル自体が定義できない。そうすると、さきほど東さんが言ったプロンプトエンジニアリングの例のように、道具に振り回される奴隷になってしまう可能性が高まるわけです。
東:とても大事な指摘ですね。これは哲学的に言えば「道具というのはむしろ死んだものでないといけない」という話です。逆説的に響くかもしれませんが、何かが生きているということは要はどんどんすがたが変わっていくということであり、それは「道具」にはなり得ない。桂さんもおっしゃったように、いまのITやAIの進化は、道具ではなくひとつのエージェントを作ろうという方向性になっている。つまり、本来道具であるべき対象を生き物にしようとしている。
これはSNSを考えてもイメージしやすいかもしれません。もしX(旧Twitter)がゼロ年代ごろの初期の仕様のまま止まっていてくれていれば、ユーザーのリテラシーはどんどん高まっていったと思うんです。でも、急に長文投稿が可能になったり、表示のアルゴリズムもコロコロ変わったりすることで習熟が難しくなっている。そして、新しいアルゴリズムにいかにうまく乗るか、それをいかにやり続けるかで勝負が決まるという世界になっている。うまく乗れている人はいっけん賢く見えるかもしれませんが、アルゴリズムの暴力に抵抗できなくなっていることには変わりないと思います。