『ブラッサム』“清治”渡部篤郎はなぜ“自由”になれなかった? 父と娘を縛った時代の価値観

 厳格かつ放蕩無頼な父・清治(渡部篤郎)が逝った。朝ドラこと連続テレビ小説『ブラッサム』(NHK)第2週「父からの、解放」はある意味、珠(石橋静河)が父のバトンを受け取り、やりたいことを好きなだけやる生き方を歩み始める、そのスタートを描いた。

 自由になった珠は書きたい気持ちがあふれ、同人誌を再開し、好きな格好で写真を撮る。父の決めた結婚を3日で放り出したことも最初の一歩だっただろう。では、家族を振り回し、最期に「死にとうない」と叫んだ父・清治は結局何に縛られていたのだろうか。

 制作統括・村山峻平チーフプロデューサーは清治についてこう語っている。

「もう一人の『清治』に何を見るのかは視聴者の皆様に委ねている部分もありますが、少しだけお話すると、あの時代は女性の言動が非常に制限されていました。その裏で男性はどうだったのかと考えたとき、家父長制や長男優位主義の中で長男・嫡男であることを定められた清治は、求めた幸せが得られず、自由になりたいと望んでいたのではないでしょうか。清治の言動は自分勝手に映るかもしれませんが、息苦しさや自由への渇望を感じていて、自分が成し得なかった想いを珠に託しているのかもしれません」

 第10回のアバンで、清治は珠の腕の中で気を失う。タイトル映像が明けると、清治はもう位牌になっている。宇野千代の書いたものでは父が亡くなったのは大雪の日だったが、ドラマではちらつく雪に変えられた。村山CPがこの違いをこう語っている。

「清治があばれたあとの、正月・新春を感じさせたかったという意図です。雪の中でそのまま倒れてしまう清治は切ないですが、彼がいなくなった後に残された家族がどう受け止めながら次の季節(新春)に向かっていくかという世界観を見せたいと考え、新春の前の12月にぱらつく雪のようなニュアンスにしています。 私たちとしては、清治が亡くなった後の珠とリョウの縁側での会話がクライマックスだと考えています」

 縁側から見える庭の桜の木には小さく冬芽が顔を出しはじめている。それを眺めながら、珠は父のことを思う。「お父さまが死んだいうのに、心がせいせいしよる」。そう打ち明ける珠を、リョウは「それでええんよ」と受け止める。おもしろいのは、再び文章を書き始めた珠がまず書いたのが、「おねしょ」の話の続きだったことだ。

 第6回で珠は「おねしょ」を題材にしたお話を書いて、妹の俊子(徳丸心結)と弟の英男(徳丸夏輝)たちに読み聞かせていた。その続きを書いたのだ。それは「〜〜もう誰にも叱られない。おねしょなんてこわくない。おねしょなんてこわくない」と締めくくられ、珠は弟や妹と笑い合う。

 「もう誰にも叱られない」「こわくない」は、もう父に叱られない、父なんてこわくない(もういないから)という意味にもとれる。その後、梅(松本穂香)が羽子板で遊ぼうと誘いに来たとき、弟たちが一瞬ためらうのは、父に外で遊ぶことを禁じられていたからだろう。でも、もう叱られないから外でも遊べるのだ。岩田屋のある商店街の通りで珠たちは笑顔で羽子板遊びをする。

 村山CPが縁側の会話を「クライマックス」と語ったのは、この解放感につながっているからだと感じる。どしりと乗った重たい石のようだった父がいなくなって、自由になったのだ。でも、それだとなんだかお父さんがかわいそう。最後まで何がしたかったのかわからなかったと言われたり、いなくなってせいせいされたり。まあ、あれだけ放蕩無頼だったから仕方ないが。

 清治は息を引き取る前、「死にとうない、死にとうない」と5回も繰り返した。「わしはな、結局なんも」(できなかった)と後悔しながら死んでいった。

 珠のモデルの宇野千代は、父が亡くなるときの心の叫びをこう想像している。「俺はいま死ぬ。この放蕩無頼の一生を、いま、この瞬間にできることなら始めからやり直したい。人の世に定められた真っとうな生活を、もし出来ることなら、始めから踏み直したい」(『生きて行く私』より)

 ドラマもこれを受けて書いたのだと思うが、「死にとうない」は少し情けなさすぎる気もしないではない。なぜ「やり直したい」にしなかったのか。

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